『仏陀 その生涯と思想』 増谷文雄著(角川選書)
いやいやこの本は素晴らしかった。ルナンの『イエス伝』(2013年9月2日掲載)よりもこちらを、日本人としては勧めたい。
これは釈迦の言行録である。そこに釈迦の真実がある。
言ってみれば仏教の経典というものはすべて釈迦の言行録なのだが、しかし彼の本当の言行録は数ある経典の中の美辞麗句の中に埋もれてしまっている。そこから実際にかれが言ったであろう言葉を紡ぎだすことが必要だ。
それができるのは、人としての生き方を仏典の中から選ぶ才覚がありさらに想像力を働かせることができる人なのだ。それは生半可の知識と読書の質の高さではないと思う。やはり仏陀をその当時の人として今あるがごとくに感じる能力がなければだめだろう。増谷文雄はそういう人だと思う。
釈迦は六年間の苦行で悟りを得ることはできなかった。極端にはしることで悟りは得られないと理解した。しかし逆にいえば、苦行の極にいたからこそ本当の悟りは極端にはないのだとわかったということでもある。
そして「中道」にこそ悟りの深淵は開かれるのだと理解するのだ。しかしぼくらは彼の言う「中道」ということばを勝手に使ってはいけないと思う。なにが極かを知らなければその中道もわかろうはずはない。
のっけから中道を言う人のほとんどはまやかしの中道である。
それが釈迦の初めのことばの内容であった。そして、死に際してかれが言ったことばは、「私(釈迦)を拠りどころとせず自らを拠りどころとせよ」ということであった。くわしく言えば、この道に入ろうとする者は「私(釈迦)を拠りどころにしてはいけない」ということなのだ。「他人ではなく自らを拠りどころとしなさい」というのだ。
もちろんのことけっしてそれは神ではなく、釈迦でも仏陀でもない。自己に依拠して修行をしなさいということなのだ。
さらにもう一つ「法」(のり)を拠りどころとしなさいと言う。それは天然自然の法であり、その中における人というものの法なのである。
まさに仏教が(今でいう)宗教でさえないということなのだ。しかも無神論である。
はじめに言葉ありと言い、神はわれを見捨てた、と言ったイエスと妙な符合があるではないか。
まさしくこの本は、そのようにイエスと仏陀をたえず並べてみることによって、人が「まこと」というものを見つけようとするとき、期せずしていかに同じ道を歩んできたかということも暗示している。
奇しくもこの二人の「悟り」に至った年齢はほぼ同じ30代である。人というものは、その時代になにかを見つけ自分の生き方を決定するものらしい。ぼくらも自分が30歳の時に何を決断したかと考えると思い当たるふしがあると思う。まっこと三十にして立つ、なのである。
ルナンの『イエス伝』、増谷文雄の『仏陀』それに加えて言わずもがなの、中村元の『ブッダのことば』はぼくにとって衝撃の書だった。なんにしてもただただ「おもしろい」のである。

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