『われらの生涯の最良の年』 1946年アメリカ
ウイリアム・ワイラー監督
ロバート・E・シャーウッド脚本
フレデリック・マーチ(アル)、マーナ・ロイ(ミリー)、テレサ・ライト(ペギー)、ダナ・アンドリュース(フレッド)、ハロルド・ラッセル(ホーマー)
第二次大戦後、同じ故郷に帰還する兵士三人が軍用の飛行機の中で知り合う。海軍の男(ホーマー)は両手がなくカギ爪を装着している。
だんだん故郷の風景が見えてくるとそれぞれの嬉しさの陰に不安がありありと浮かんでくる。このシーンは秀逸だ。
三人は故郷につくとすぐ家に帰るのだが彼らを待つ環境は三様である。戦争から帰還する兵士を迎える目は決して暖かいだけではなかった。いや、それ以上にかれら自身が心にわだかまりを持ちつつ「新しい」社会に入っていくのである。
このかれらのその後の三者三様の生きざまを描いていてすばらしい出来栄えである。通り一辺の物語ではなく各家庭で起こる様々な軋轢を追いながら展開する。
しかしこの佳作がその素晴らしさにもかかわらず、やはりB級映画になってしまったのは、やはりこれが「アメリカ映画」だからだろう。
どういうことかといえば、どうもアメリカには映画を指図する裏の権力者がいるようだ。この映画は最後の結婚式の場面がいままでの緊張感をぶち壊してしまっているのだ。最後はハッピィエンドにしろという指図があるらしい。これがなければどれだけ余韻のある良い映画になったかと思うと気の毒である。
こういうことがもう一シーンある。それはあるバーでこの戦争は間違いだったとうそぶく紳士がいたことだ。彼はたぶんこの映画で重要な役割を果たすべき人物であるはずだっただろう。たぶん彼の言説をめぐってもっと踏み込んだ展開があったはずだ。
しかしどうもそのシーンはカットされたとしか思えない。だからトンデモ間抜けな登場人物となってしまったし、それを殴り倒す二人の帰還兵の深い思いが消えてしまって、これも単なる愛国兵だっということになってしまったのだ。
つまりは映画の質を落としてしまった。
どうもアメリカ映画にはこういうタガがはめられているようだ。しかし露骨にそうとわかるシーンを残したということは、うがって考えればアメリカ映画を批判する現場の作り手のせめてもの抵抗だったのかもしれない。
つまりこの二つのシーンなどなくても十分にこの映画は成り立つものだったからである。観る者にわかるようにあえて不自然にそれを入れたということだ。
もちろんこの映画は見るべきものがわんさとつまった良作であって、戦争を題材にして正義感ぶったり英雄的行為を高らかにうたったりするたぐいのB級ではないのである。それどころか戦争の陰の部分をこれだけ辛辣に描けたことだけで、アメリカ映画としては出色の出来なのである。
しかしやはりこの映画はB級なのだ。
その理由は上にも掲げたとおり、「ハッピーエンド」である。この幕引きは非常に危険なのである。人はそれを望むからというだけでやると失敗する。多くは映画を芸術としてではなく客の財布のひもをゆるませるだけの目的でそうするのだ。つまり作者たちの頭の中には芸術ではなくカネが踊っているのである。
しかしハッピーエンドでもA級の作品はたくさんある。それはある条件のもとでそれをおこなうからだ。ハッピーエンドにしても作品の質が損なわれない条件とは二つある。
その一つは、観客にどうしてもハッピーエンドにしてほしいという心を極限まで引っ張れるような伏線が張られていることだ。だからそれは必ず悲劇的な物語となるはずのものだ。それも生半可な悲劇ではだめであり、見ているうちにこれはハッピーエンドになるなと分かってしまうようなものでもダメなのである。
今回の『我らの生涯の・・』はどうも途中でああこれは丸く収めるなと感づいてしまうのだ。
そしてもう一つの条件とは、ハッピーエンドになったあと、その状態がどうみても続くはずはないという不安をそれとなく示す場合だ。つまり悲しい結末としてのハッピイエンドである。
それは観る者に感づかれない場合もあるだろう。その場合は単なるハッピーエンドになってしまうがそれはその人が気づかないだけの話だ。これはどれだけの余韻をそのあとに残せるかという演出の技量にかかっている。気づくか気付かないかの微妙な観客との駆け引きなのだ。
とまれぼくはB級がつまらないとは言わない。かえって面白い映画はほとんどがB級映画といっても差し支えないほどだ。それはひとの溜飲をおろさせるし、ああ見てよかったと思わせるのだから。

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