『めまい』 1958年アメリカ
アレフレッド・ヒッチコック監督
キム・ノヴァク(マデリンとジュディ2役)、ジェイムス・スチュアート(ジョン)
長い。しかし飽きない。それは用意周到な人間の関係を描いているからだ。ここに登場するのは精神症を持った女性である。ヒチコックはここで多くの普通の人がもっているような精神症を扱っている。つまりいかにもありそうな精神症である。特にドラマティックな異常な精神の発露ではないごく身近な精神の混乱状態を描いているのだ。
この女性は友人の妻マデリンで、ジョンは彼に頼まれてその妻を監視する役を頼まれる。それは彼女が自殺願望があるということでそれを未然に防ぐためだというのだ。実直だが高所恐怖があるジョンはそれが原因で相棒の警官を死なせてしまい、職を辞している時だった。
マデリンの行動はまったくつかみがたく、自分を失って何かに取りつかれたようにして町をさまようのである。ジョンが尾行しているうちに彼女はどうも祖母の代に自殺した女の霊を受け継いでいるような行動をとることに気付く。その女性の墓に詣でたりその女性が描かれた絵を美術館で見入っていたりするのだ。そして彼女はそれを一切記憶にとどめていないのである。そのうちに海に飛び込んで自殺を図るなど、まったくその亡霊に取りつかれてしまったかのようである。
ジョンはその事実が何を示しているのか探ろうとしながらも、寡黙なマデリンに同情するあまりそれがついに恋にまで発展してしまうのだった。そして二人は愛し合う仲となる。
ある日教会に行き彼女が鐘つき塔にまっしぐらに上がっていくのを見てあわててジョンはそのあとを追うのだが、塔の階段半ばで高所恐怖のために足が動かなくなる。そしてマデリンは塔の上から身を投げてしまうのである。
事件は死んだ女と現場にいた男、というわけでジョンは裁判にかけられてしまう。ぼくらはいったい彼はどうなってしまうのだろうかと心配し、それでなくともこの事件はいったいどうなってしまうのだろう、とまったく霧の中に入ったわけだ。とにかく主人公が死んでしまったのだ。ここまで引っ張ってきてヒッチコックはこの物語をどうする気だろうかと心配するやら興味津々となる。
そして友人が依頼したという事実によりジョンは当然無罪となる。何とあっけない。ここで急展開はしないのだ。そのあとジョンは高所恐怖によるたび重なる失策と、愛するひとを失ったショックで精神を病み病院に収監されてしまう。まるで廃人のようになってしまったのだ。
ヒッチコックは、物語がどうなってしまうのか皆目見当がつかないところに観る者を連れて行ってしまうのだ。
退院はしたものの、彼は街で見る女がみなマデリンに見えてしまうのだった。そして何人目かの女性がマデリンにあまりにも似ているので、つい彼女のホテルまで着いていってしまう。女はまるでマデリンとは正反対の派手な女性で似ているのはその姿だけであった。しかし彼は死んだ彼女を想うあまりその女を食事に誘う。当然気持ち悪がられるが彼女もその執着心にほだされてつい誘いに乗っていくのだった。
しかし彼女がひとりになった時、この女が思い出した「映像」がまったく思ってもいなかった展開をぼくらに告げるのだ。彼女が思い出した光景とは、鐘つき塔にのぼった彼女を待っていたのは死んだ妻を抱えたあの友人だったのだ。物語の大どんでん返しである。
つまり彼女はそれを知っていたのである。それは彼女が死せる妻の身代わりになったということであり、妻殺しの代役だったのである。すべてはお芝居だったのだ。
まったく思いもつかない展開にぼくらは愕然とする。しかしこの設定がそれほど予期せぬ展開かといえばそうでもない。いわばよくある妻殺しのパターンでもあるのだ。しかしなぜぼくらが予想もつかなかったかというとそれはヒッチコックのこれまでの映像がぼくらにマジックをかけたのである。
そのうちに彼女(つまりマデリン)もこの実直な男に心を動かされてしまい好くようになるのだ。この間にだんだんと彼女が気持ちを動かされていき、ある恐怖感(ことの発覚のおそれと恋してしまった自身の中のジレンマ)を感じ始めるところが圧巻である。
ジョンは彼女を誘ってマデリンと同じような服装をさせようとする。そのころには女の恐怖感がのぼりつめていき、それにしたがってジョンも事実を予感していくのである。一気に物語は走り出すのだ。絶妙な職人技である。画面の隅までほころびを見せない。
しかし『サイコ』同様この手のミステリーは謎がわかってしまったらそこで観客はエクスタシーを迎えてしまうことも事実だ。もう二度とこの快感を得ることはできないのだ。

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