『こころ』 夏目漱石著(1914年)
まえにこの小説をもとにした映画を二本見たがなんだかよくわからない、回りくどい、たいくつな映画だった。しかもその二つの映画はまるで違った映画だった。それでぼくはムラムラとこの原作を読みたくなったのだ。いったい何が描かれた小説なのかと。
読んでみて映画がなんでああいう風に作られたのか何となく納得がいったのだったが、だからといってその映画がこの小説をそのまま表してはいない、ということも同時にわかった。
この小説は世間的に言ってみれば、ダメ男三人の物語である(正しくは二人だが)。自分の中にある否定さるべきもの、嫉妬や猜疑や高慢や強欲などが負い目となって自分自身に戻ってくるような要するに自己否定の思想がこの物語を形作っている。
『ジキルとハイド』のような西洋の二元論ではなく、あくまでも自己の内部に整合性を求めようとする一元的な思想なのだ。これが日本の特徴である。われわれは人のなかに相矛盾する何人かの自分がいるということを認めている民族なのだ。いわば多神教ならぬ多悪魔教である。
ぼくらは人を善と悪に分けたりはできないのだ。その中にいる様々な傾向性をいかに制御できるかということが人としてのまっとうな在りかたであるとするのだ。天使と悪魔のごとくきっぱりと分けることはしないのだ。
だからこの小説のように何だか行ったり来たりのまどろっこしいような人間模様が描かれるのじゃないだろうか。
作品の初めから3分の2ほどは、学生である私と私が惹かれる「先生」とよぶ年長者のやりとりなのだ。この先生べつだん彼の先生ではないのだが彼は年上の人をそう呼ぶのである。
先生は妻と二人きりの生活で、私はその中に入っていって妙な付き合いが始まるのである。そこにはまったく生臭い人間関係がなく皆がまるで人形のようにして、つまり何を考えているのかわからないようなそんな三人がお互いを突き詰めあうわけでもなく一見淡々として関係を保つのだ。
しかし私にはその先生がなぜ自らをだめな人間とするのか、価値のない存在と考えるのか全く分からないし、奥さんもそのことをまったく想像できないという。先生は世界を嫌っていてその中にいる奥さんも嫌われていると、そう感じている。それでお互いにそれはなぜかと問うことをしないのだ。いわばこれは日本人の原像である。
先生がそのように変わってしまったのは、ある友人の自殺事件からだと私は奥さんから聞いたが、それがそれほどに重要な事件とも思えないと奥さんは言う。
それから「私」は父親の病気の看病で田舎に帰るのだが、この章はあまり重要でも必要でもない事柄であり、かえってこの小説をただ複雑にしているだけのように思える。「私」は先生に連絡を取れずにイラつくが父の病状が不安定で帰ることができない。
そこへ先生からのとんでもなく厚ぼったい手紙が来るのだ。そこには「この手紙の届くころはぼくはもうこの世にいないでしょう」とある。これはミステリーである。いったい何が彼をしてそうさせるのだろうか、という謎だ。
そしてこの手紙が今までの冗長なこの小説の謎を解く答えなのだ。つまりこれはある不可思議な事件の謎を一通の手紙で解決するミステリー小説だったのである。しかしミステリーのようにテンポのいい文学ではなくあくまでも純文学然とした人の心の内側を探るような筆致だったので、ほとんどの堪え性のない読者はここまでたどり着く前に本を閉じてしまうだろうとぼくは思った。
この手紙の文章はまったく今までと違ってドラマ性のあるはっきりと面白いといえる文であって、ここに来てやっとぼくらは腑に落ちるのである。しかしだからこそ、この面白いといえる手紙だけがこの小説全体の印象を決定づけてしまい、読み終わった後はただこれだけが残って他のそれまでの長い物語をすべて忘れてしまうということになる。今までの文はそれほど退屈で訳の分からないものだったのである。この手紙とやらを読み終わってみればなーんだということになってしまうのだ。
それで映画がなぜあのようになったのかがわかる。つまり映画は全編この手紙の内容でしめられているのだ。この内容とはつまり先生が若いときに下宿した家での話である。
彼(つまり先生と呼ばれている人物)はある軍人の未亡人と娘の住む家に下宿人として住むことになるが、しだいにその娘に惹かれてゆき未亡人も妙に娘を彼に近づけようとするのだ。
ところがあとからこの下宿人になった友人が当の娘に恋をしてしまい、彼に相談を持ちかけるのである。つまり先を越されたわけである。そしてその時に優柔不断を決め込んでしまったことでかえって動きのとれなくなってしまったた苦悩である。
そして彼(先生)は友人を出し抜くために仮病をつかって学校を休み、ひそかにその女性に結婚を申し出てしまうのである。それはすぐ受け入れられたが、数日後になんとその友人が自殺してしまうのだ。しかし遺書には恨み言のひとことも書いていなかったのである。
その結果、彼(先生)はこれが自分のなしたことの結末と判断し、友人に対する自分の仕業を悔いて人生を送ることになってしまったのだ。
まさに二元論的西洋文化と違って、神に懺悔することですべては解決するような文化では、日本はなかったのだ。先生がおこなった友人に対する裏切りは自分に対する裏切りでもあって、その結末をつけるのは結局自分を死に追いやることでしかなかったのである。
何とも日本的な自殺の二態なのであった。
しかしこれは彼の思い違いかも知れないのだ。友人の死の原因が恋に敗れたからとはだれも(作者も)言っていないのである。この小説はそんな印象を受けたのである。
妙に謎を残したまま終わってしまう小説だ。うじうじとして生きる男の三態だが、これが男の生きる道なのかもしれない。

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