9月も最後の日曜日。今日は山に行く予定で、昨日の夜は早めに寝た。といってもやはり3時に近くなってしまい、いつものようにして録音しておいたMDのイヤホンを耳に当てて寝たのだ。そのうちに眠くなってしまった。いつものことだ。
しかしふと歌が聞こえてきて目が覚めた。それはピアフの歌だった。そのまま聴いているうちにぼくはどんどんその歌に入り込んでしまい、かえって目が覚めてしまった。なぜならこの人の歌がすごかったからである。魂を乗せて歌詞が歌われるということがこういうことなのかと思った。それほど彼女の歌は聞き捨てならぬものだった。エディット・ピアフという人がこれほどすごい歌を歌う人とは知らなかった。歌詞のわからないぼくに、確かにその歌は訴えかけていたのだ。
いつ何の番組でこれをやっていたのか覚えがない。とにかくラジオを録った中にこの歌が入っていたことは確かなのだ。それはピアフの紹介番組だった。『愛の賛歌』とか『バラ色の人生』という歌を歌った人である。その日本語訳の歌詞は誰もどこかで知っているような、能天気な歌である。この日本語の曲名もそのままわれわれがきくと箸にも棒にもかからない凡庸な曲に見える。そして日本の歌手はそのようにして凡庸な歌として歌っている。だからシャンソンなんてつまらないよな、とぼくは思っていた。
ところがピアフの歌は別物である。これがシャンソンならば、もしかするとシャンソンとはすばらしい音楽なのだ。と思った。彼女は愛なんて歌いはしない。彼女が歌うのは死と限りなく親しい愛なのだ。それはもはや愛ではないのだ。カミソリをまとった相手を抱くようなものなのだ。人はだからそのような愛を覗きはするが自分で飛び込むことはしないのだ。しかし死がちらつく愛こそが本当は誰もが願う愛の形なのらしい。そこらへんを彼女の歌は歌っているように思えるのだ。愛することは死ぬことなのだとそう歌っているようでもある。
それでぼくは彼女のためにまったく眠ることができなくなってしまったのだ。しかし朝は早い。もうすっかり交感神経が興奮してしまったぼくは眠気がどこかへ行ってしまいこれはやばいと3曲を聞き終えたところでスイッチを切った。ところが切ったからといって想念はどんどんと膨らみ、恋することの理不尽さを考えてしまい、気付くと外の明かりがカーテンの端から入ってきたのだ。もう今日の山はやめようかと思って、諦めかけた頃にようやく眠ったようだった。
それで朝はたいそう眠かった。8時半にやっと起きだして家を出たのは9時を過ぎていた。
菊花山に行く
大月で降りて菊花山の急登で、一時間ほどで山頂に着く。はじめはまだよかった。
どういうことかといえば実はぼくは今日の山歩きはもう5か月半ぶりで、その間には親指の爪を剥がしたりしてすっかり足を使わなかったのだ。それでかどうか知らぬが何やら右足の甲が痛くてびっこを引くようになってしまったのだ。自分ではもう平らなところを歩くのはつらいので、山を歩いて足周辺の筋肉に刺激を与えればよくなるのじゃなかろうかといつものように軽く考えた。
それで勇んで登ったまではまだよかったのだ。がしかしだんだんと足は痛くなりやっぱり無理をしてよくなるものじゃないと気付いた。しかしもう登ってしまったのだから仕方ない。菊花山からいったん下って登り返すと猿橋−九鬼山間の尾根に出る。残りはほとんど下りである。とにかくゆっくりと歩く。いつもの膝の痛みが出ないほどゆっくりである。人と同じ歩調で歩く。今日はほとんど人がいず蜘蛛の巣を払いながらの歩きだ。途中で飯を食い、御前山ではしばらく休み、下りの厳しいところはおぼつかない足を呪いながら、歩いた。3時間半ほど歩いたことになる。
猿橋駅について足を揉んだがたいして助けにはならなかった。高尾で降り古本屋に寄って足の疲れを取るつもりでゆっくりと眺めたらなかなかいい本がたくさん見つかった。日本の映画の歴史を細かに記録した『日本映画発達史』(中公文庫)という立派な文庫本があった。厚い本で全5巻あるうちのVだけを買った。それしかなかったのだ。昔はこんなちゃんとした本が文庫に入っていたのである。著者は田中純一郎という。昭和51年の本だ。
このころはいい本がたくさん出たのだ。今の出版状況を見るとなんと寂しい事だろうか。抜粋本だとか一部分だけを取り上げて誰誰の言葉などと言うハウツーもののようにして哲学者や文学者がいいように扱われているのだ。そんな本をどれだけ読んでも何も伝わってこないというのに。
それこそ越路吹雪を聴いてピアフを知ったつもりになるくらいが関の山。ああ貧しくなりにけり。

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