『麗春花』 1951年新東宝
島耕二監督
島崎雪子、島耕二、花井蘭子、伊豆肇、三宅邦子
親の秘め事が娘を悩まし続けるという設定である。良かれと思って隠していた事実が娘を苦しめるのである。
母が死に父子二人となった娘は、父親が好きなあまり結婚にも興味を持たない。しかし自分が父の実の子ではない事実を知り混乱する。そこまではいいが、そこにいやに複雑な恋愛事情を付け足すことで、何やらこの映画は複雑に入り組んだ家族劇になってしまうのだ。
実は父の愛人にも子供がいて、娘はそれを実子と思い込んでしまう。偶然見つかった亡き母の遺書には、父とのあいだの第二子を流産させたのはその愛人の子供をおもんぱかってのことだと記されている。それがなぜなのかはわからないのだ。なぜ人工流産したのかもわからず、そのうえ流産が元で母は死んだと娘は思う。いやに込み入った事情になってしまった。こう書いていてもなにがなんだかわからないだろう。
ところが愛人の子供は実は実子ではなく先夫の子であり、父はそれを自分の子として認知したのだという。いやはや何が思い違いで何が事実なのかがわからないほどに、見ているこちらも混乱するのである。
実の子かそうでないか、というつまらぬことがすべてを狂わせるのだ。それを捨象してしまえば愛に満ちた家族劇であるはずのことなのだ。つまり皆が相手をおもんぱかってやっていることにすぎないのだ。言ってみれば娘の一人芝居で起こる悲劇なのだ。そして結局は悲劇とはならずお互いの誤解が解けたところでハッピィエンドとなる。なんじゃこれは。
平静に考えてみると、誤解のもとはすべて母が残した遺書の間違った記述ということになっているのだ。それが故意なのかどうか、そこのところはミステリーである。
物語は込み入っているが映画の撮り方はいたって単純である。つまり娘の心の移り変わりを描くだけであとの事情にあまり力点を置いていないのだ。それは、正解だったと思う。しかしこれほど入り組んだ脚本にしなくとも、良かったのではある。
しかしまた考えてみると、この死んだ母という女のミステリアスな最期がこの映画の主題なのではなかろうかと思うこともできる。
夫の愛人と親しくしている風を装って、相手に人工流産の次第を半ば脅迫めいた言葉で伝えるのだ。私が産んだら困ることになりはしない?と。その映像は少し背筋が寒くなるもので、向かい合って話している彼女はまるで影絵のようにシルエットだけで表現されているのだ。異様なのである。
それのみならず、彼女は娘にあてた遺書で「お父さんをだれにも奪われないように」とくぎを刺すのである。ここまでくればもはやこれは遺書というよりも脅迫文である。こうして自分の死んだあとまで生者を支配しようとするその情念はいったい何か。それは彼女の生い立ちがそうさせるのだろうか。わからない。
『風立ちぬ』 1954年東宝(昭和29年)
島耕二監督
石浜朗、久我美子、山村聡、山根寿子
堀辰雄原作で有名だがぼくは初めて見た。この頃の文学に頻繁に登場する結核療養所の物語だ。今やもう過去の話になってしまった感がある、この結核という病は当時はかっこうの悲劇の舞台を作ってきたものだ。私事だが、ぼくの父親はこの結核で親戚からも見放されたということを母から聞いているので、それなりの実感はある。しかし母の言葉をそのまま鵜呑みにはできないとも思っている。そんな事実を知ったからかとて何になるのだろうかという思いはその当時も今も変わらない。
主人公の結核の女性・節子を久我美子がやっている。周りの善意に固められて申し分のない療養生活を送っているこの女性が一人で周りに波紋を振りかけるという展開で、どうもあまり気持ちのすっきりとしない展開なのである。原作がどうなのかは知らないがこれは脚本がよくない。これじゃわがままな女の一生である。病が人を心理的に追い詰めるという設定ならばほかに書きようがあるはずだ。勝手に悲しみ勝手に怒り勝手に自分の死を言うのならばそれはただの自己中心的な人間像なのだ。
つまり主人公の節子にまったく魅力を感じないのである。もちろん感情移入もできない。これでは映画としての体裁じたいが無いに等しい。これはないでしょ。
それに久我美子はどうもあまり適役ではなかった。この役者の目はあまりものを言わないのだ。有り体に言えば演技がうまくないのだ。
結末は妙に元気になった節子が父を送りがてら、帰りに若い男に無理を言って回り道をする。その結果とちゅうで発作を起こしてあっけなく死んでしまうのだが、この最後の場面だけがいやにドラマチックなのである。
島耕二という人の好みかどうか、両方とも「父娘もの」である。父娘がいやに甘えあっているのだ。
しかし出来は『麗春花』が勝る。主役の違いかもしれない。

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