映画『伊豆の踊子』1967年版、東宝
恩地日出男監督
内藤洋子、黒沢年男、乙羽信子
内藤洋子が、くりっとした目の女の子というだけでいいのだろうか。いいのかもしれないしこれじゃあダメかもしれない。幼さの残る少女を描くのにこれでいいのだろうか、という気がしてしまう。そういう女の子を描いたといえば、恩地の作品はそれだけのものなのだ。
つまり何を言いたかったかというと、主人公の学生に興味と好感を持っている少女が、一方で温泉の中から真っ裸で飛び出してこちらに手を振る姿、という一種ドキリとさせるこの少女の二面性をどう描くかということなのだ。幼さそのままのドングリ眼での凝視と裸を恥ずかしいとも思わない少女だけでは、別れ際に学生が涙を流すほどの恋心が芽生えるだろうか。そんなことはあるまい。
少女の目には、そこに幼さの中にも芽生えることがある恋心のようなものが見えてこなければ。これは学生の一人芝居になってしまうのだ。
も一つこの映画は「不幸な女」たちの話を無理やり挿入することで全体が暗い色調になっている。どうして無理やりこういう原作にもない場面をいれたかといえば、たぶんあまりにも内藤洋子の表情に影が描き切れなかったからだろう。ドングリ眼だもの。
それで映画全体の影の部分を作るために余計な話をいれてしまったのに違いない。これは失敗で、これによって余韻がなくなってしまった。
ほとんど原作のセリフをそのまま使ってシナリオを書いている。よけいな挿話をいれるぐらいならセリフに独自性を持たせるほうが気が利いていると思うが、その力がなかったのだろう。
これならばずっと「百恵の踊子」のほうがいい。こっちの最後の場面、酔った客に抱き着かれても笑顔を作る踊り子の身の悲しさをストップモーションで終わらせる、あのみごとさには負けてしまうだろう。
映画『伊豆の踊子』 1974年日本
西河克己監督
山口百恵、三浦友和、中山仁
なかなか良くできた作品だと思った。当時の山口百恵がアイドルだったということを考えると、人気抜群のアイドルがこなす役としてはかなりきわどいなと思ったのだ。今のアイドルではこうはいかないだろう。それほど今のアイドルの立ち位置というものが当時と変わってきていたのだった。そういう意味で当時のアイドルといわれた少女の骨太さが感じられた。
いい作品だと思わせるもう一つの理由は、川端の原作を曲げていないということだ。たしかに原作は書生の心の移り変わりを描いているが、この映画はやはり百恵の少女芸人が主役になってしまってはいる。がしかしそれは原作を曲げたというよりも、一つの解釈だということである。
その証拠に薄幸の少女像としての存在はきっぱりと表しきっているのだ。それは原作よりも厳しく表しているともいえる。映画ではこの少女の幼なじみが身を売って病気になり、そのあげくに死んでしまうという原作にはない伏線を張っているのである。
この死んだ少女に彼女の将来を暗示しているのだ。そして畳み掛けるようにして最後のシーンはお座敷で踊る少女に刺青姿の男が絡みつく場面で映像がストップモーションになる。
ああ、これがアイドルの演じる役どころなのだろうかと今では驚いてしまうシチュエイションなのだ。あの頃は「アイドル扱い」の仕方が今とは違っていたのだ。厳しかったのである。時代は変わった、か。
因みに一方でこんなことも考える。川端作品はあどけなさの残る女が性の世界に入り込んでいくその何とも言えない世界を描くことが多い。それは男から見た寂しさであり、ある特殊なエロスである。まっとうな大人のエロスとは違う何かだ。
それはオタク的ともフェチシズムともいえるものである。少女コンプレクスである。そういう意味で言えば川端は時代を先取りしていたのかもしれない。
川端作品を後ろから遡ってたどっていくと、『伊豆の踊子』もただ一青年の青春の記憶などというものではない異様な姿で浮かび上がってくるのである。
『伊豆の踊子』はアイドルの登竜門的な作品で、ずいぶん映画化されている。ぼくは五所平之助監督、田中絹代主演のモノをぜひ見てみたい。と思っている。

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