『丹下左膳余話−百万両の壺』 昭和10年日活京都
中山貞雄監督
大河内伝次郎、喜代三、花井蘭子主演
丹下左膳というがこれはまったくの喜劇である。そそっかしく気が弱く短気で乱暴者として描かれる丹下左膳が連れ合いのおかみさんにはまったく頭が上がらない。
あるときヤクザに殺されてしまった男の子供を引き取って育てるはめになるのだが、そのドタバタがすこぶる面白い。おかみさんはあたしゃ子供は嫌いだよと言いながら結局なんやかやと世話をやく姿と、乱暴者には強いが子供にはからっきし意気地がない左膳がちぐはぐな「夫婦」を演じているのである。
この監督は場面展開の妙を心得ている。ひとつのシーンに余情を残して次のシーンに移る技がうまいのだ。人に語らせずに場面に語らせるのである。
また結構な歳であるはずの大河内伝次郎の身の軽さに驚く。いい役者は身が軽いなと歌舞伎を思い出してつくづく思うのである。
百万両のありかを書いた地図が隠されたこけざるの壺をめぐっての騒動。その壺がある侍屋敷からくず屋に売られ、くず屋から子供の金魚鉢へとゆくえをかえてゆく。しかしその壺が問題ではなくそれにかかわる人間模様が面白いのだ。元の壺の持ち主、武家屋敷のあるじ源三郎のちょっとした浮気遊びが壺のゆくえに絡んでいたり、なかなか面白い作りをしている。何回見ても面白い映画である。
ほとんど落語を映像化したという感じの喜劇なのだが、もちろん人情ものとしての喜劇であることを忘れてはいない。、意外にも今でも(いや今こそ、かもしれない)十分見るに値する作品になっている。
まったく昔の映画は面白いな。
ついでに大友柳太郎の『丹下左膳 こけざるの壺』
というのを見てみた。同じストーリーをあつかっているが、こっちの左膳は前に見た大河内伝次郎に数段劣る。大友は目に迷いを出すことができていない。この人は目力だけで演技しているようだがかえってそれがわざわいになっている。十何年か経つと物語もこんなにもゆるいストーリーになってしまうのだろうか。美空ひばりを出して歌わしたりするので、困ってしまう。だから年代も監督も確認せずに消してしまった。
カラーになったのもマイナスで、どれをとってもよくなった点がない。カット割りも工夫がない。
中山貞雄の作品は、例えば左膳が子供に父親の死を告げる場面で躊躇しながらお前は泣いたことがあるかいと何度もきいたあげくに、ついに打ち明けるのだが、あえてその場面は写さないで子供の後ろ姿だけで表現するのだ。あるいは奥さんがさんざん子どもなんて嫌いだといった場面のカットの後に、突然その子供に飯を食わしている場面が来る。、こういう粋なカット割りがあったのだ。
というわけで中山の次の作品を見たのだった。
『人情紙風船』 昭和12年東宝
中山貞雄監督 三村伸太郎作
江戸時代、町人長屋にはいろいろな人が住んでいた。そこに住んでいた一人の老武士が首をつって自殺するところから始まる。長屋には貧乏侍(浪人)の夫婦がもう一組、そして一匹ヤクザの若い衆が一人、いずれも職を持っていない。この二人が町人長屋でいかに生きていくかというのが主題である。貧乏をしているが町人たちはそれなりの仕事を持っている。それがこの物語の肝だ。
武士と一匹ヤクザ(髪結い)はメンツだけで生きる種族である。その行きつくところは、というストーリーである。人情紙風船というからなにか温かい人情を期待すると裏切られる。紙風船とは吹けば飛ぶような脆弱な人間たちのなす非情のことかもしれない。何と凄絶な人情だろうか。
浪人は以前父親の関係のあった武士に相談をしにゆくがいっこうに相手にされず冷たくあしらわれる。それでも彼はその事実を妻には隠して色よい返事が来るとウソを言う。彼はその気の弱さゆえにメンツを守ることだけに翻弄されるのだ。一方で一匹ヤクザの若者は地元のごろつきに目をつけられるのだが彼もメンツをカネより大切にすることで自分を窮地に追いやってしまうのだ。
そしてついに彼らはその意固地なまでのタテマエの前で命を落とすことになってしまう。彼らは町人たちのように上にはへつらい下には威張るという、当時の世渡りの術に背を向けたのである。
映像とカット割りが見事であるために、これはいったい何を言いたいのだろうとみている側に思わせる。画面が饒舌にものを言うのである。単なる長屋の一事件を描いたのではあるまいと思わせるのだ。
観客の望むような大団円を拒否した監督中山の意図はいったいなんだったのだろう。暗く重い映画である。
この監督は28歳で死んだ。戦争に殺されたのだ。惜しい。

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