『にあんちゃん』1959年日活
安本末子著 今村昌平監督、長門祐之、松尾嘉代主演
今村昌平の『にあんちゃん』。佐世保の炭鉱が閉鎖される時代、貧しい一家の父が死に、残された4人の子供たちの食うための彷徨物語である。
赤貧の中でもそれを支える人がいる、その人々の群像物語でもある。これだけ人の善意が横溢しているのに貧しさというものは容赦なく人々に襲いかかるのだった。いや貧しいからこそ人々は善意でしか生きられなかったのだ。奪い合うことではとうてい生きられぬ時代のことだ。
作品はそんな人々の生きるということへの執着を、支えあう風景として描いている。しかし見ているぼくらは、どこかでこの人々を食い物にしてのうのうと生活をしている人間がいることをすでに知っているので心温まるよりも怒りが先に立つのだった。
ぼくはこれを当時12歳ごろに見ている。その時の印象は現実を見ているようには思えなかった覚えがある。しかしそれはこれが遠い国のことだと感じたわけではなく、いつかぼくらもこういう現実に出会うのではないかという漠然とした不安だった。その時ぼくはこの貧しさを実感として感じられなかっただけだが、何かそのような貧しさがすぐそこにあるということにはうすうす感づいていたのだろうと思う。
このころ見た映画はおしなべてこういうものであった。それは後で思うに父が自分の貧しかった子供時代を自分のこどもたちにも見せておきたかったのだろうか、それとも自分で過去の自分を反芻していたのだったろうか。子供のぼくにはとうてい当時の恵まれた自分を、これらの映画を見ることで顧みることはできなかった。しかしそういった思いは知らないうちにぼくの心の底に沈殿していったのではないかと思う。
今見るとまた違った教訓がわんさと詰まっていて、今こういう時代にこそこの映画の真価の一つが発揮されるようにも感ずる。しかしやはりそれは子供ではなくおとなにとっての事だろうとも思う。
にあんちゃんの末の妹にとって兄弟が別れねばならないことのみが一番の苦しみだった。子供というものは何を食べたいとか何をしたいとかいうものは実はそれほど欲求としては強いものじゃない。幼さの求めるものとは人とのつながりが一番強いのだ。つまり一番近くにいる人と心が通じ合っている状態が一番なのだ。彼女は兄たちが食うために一人一人と職を探して消えていくことが一番辛かったのである。
奇しくもこの兄弟はどこへ働きに行っても成功せず結局故郷のボタ山に戻るしかなかったのだが、それによってはじめて末娘の「一緒にいたい」という希望が叶ったのである。
すべては元の木阿弥状態に戻ってしまったにもかかわらず、最後の場面における彼らの心からの明るさがそれを物語っている。これからまたつらい生活が待っているはずなのに映画は無上に明るい場面で終わる。それはこの映画はつまり、末の娘を描いた映画だったということなのだ。
そう気づいて初めてなぜこの映画が『にあんちゃん』なのだったかが分かった。

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