『オールウエイズ』 2005年日本 山崎貴監督
西岸良平のマンガ『三丁目の夕日』を原作とする。このマンガは相当前に連載されたものだが今になってどうしてと思ったものだ。しかしそろそろこういう時代が懐かしいというご時世になってきたということだ。だからこれは中年ばかりが見るしかないと思いきや、当たったというのだ。ということは若いのも見ているわけだ。
確かに見てみるとそこはかとなくあの時代に存在した普遍的な人間模様が描かれている。普遍的というのはいつの時代にも通じるということだ。人間の変わらない情が描かれているわけだ。
ぼくは以前にイラン映画を見て懐かしさを覚えたことを思い出した。それは『ぼくの靴と赤い金魚』とかいう題だったがそこに描かれていた少年たちの心情はまさにぼくの少年時代と呼応していたのである。
だからこの『オールウエイズ』はぼくら世代が見るのと今の若い世代が見るとではずいぶんと理解度は違うだろうがそこから立ち上ってくる感情は同じ類のものなのだろうと思う。
ぼくらにとってとにかく懐かしさが先に立ってしまうので、本来的な映画の楽しみとはまた違った見方になる。
なんせ小道具への細かいこだわりが大変だ。ぼくらにとっては、ああそんなのがあったなぁと記憶をくすぐるものばかりなのだ。昭和の生活図鑑といってもいいほどあのころの小物がいっぱい出てくるのだ。あんなものはなかった!なんて間違いさがしをするのも一興である。
つまりはそういう小物に目を奪われているうちに映画はどんどんと進んでいくのだ。それだけでぼくは満足である。できればもっと見たいと思い、それならば当時の記録映像をただ流していても同じだという気にもなる。
物語は至って簡単で、集団就職というものがありそこで上京した東北弁丸出しの少女が鈴木オートという何でも屋で働くことになる。こうした車から自転車まで何でも修理をするという店がぼくの家の近くにもあったなあ、とまたしても思い出してしまうのだ。そして駄菓子屋の盛況、初めての万年筆、クラスにいくつかいたお金持ちの家など。通りを行く車や三輪トラックや路面電車を昨日のことのように思い出させる画面が続く。こうしたなかでとってつけたような町の人情話は続いていくのだった。
しょうじき昭和の大図鑑として貴重な資料になるかもしれない映画ではある。それにしてもこんな映画がヒットしたと聞いて驚いたのだった。
もっともこんな映画を見ているくらいならいっそ昭和につくられた良作を見たほうがずっといい。あれほどの人情話ならその時代の映画にはいくらでも転がっているし、出てくる品物は本物だ。
そうすると意外なことに当時の作品のほうが一つ抜けた人情話だったりする。『オールウエイズ』はあまりにも型どおりの昭和なのである。型どおりというのは実際はないにもかかわらず、いかにも当時はこうだったというような誤謬をいう。
『岳』 2011年日本 片山修監督
これもマンガ原作である。もう小説を映画化するよりもすでに原画ができているマンガのほうが面倒でないということなのだろうか。それともマンガのほうがいい題材にあふれているというのだろうか。結構うまくできているし、マンガ自体がなかなかいい作品なのでそれをなぞっていけばいい映画もできるということだ。それ以上でも以下でもない作品である。これまたCGがふんだんに使われて臨場感を出している。つまりその使い方が大げさではないのでうまく背景になじんでいるということだ。
悲しみを背負っても能天気な日本人、というこの311の出来事をほうふつとさせるような映画だった。よくも悪しくも日本人ってこうなんだよなと思ったりした。
しかし山岳映画としては出色である。というのは大げさな素振りがあまりないし、外国映画では遭難映画をこういう風には絶対に撮れないだろうなと思ったからだ。そしてそれがいけないかというとそうではなく、こういう日本人的な災難のおさめ方というのも今や世界のひな形として十分に説得力を持ちつつあるのじゃないかとも思ったのだ。
もう、悲壮に構えても何が変わるわけじゃないのだという「諦め」を形にした映画である。諦めの在り様は一つではないということ、諦めが決して敗北ではないことをいろいろな形で示しているといってもいい。
人は何を諦め何を諦めないか、いつだってその選択を迫られるのである。

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