『ゴシックとは何か』酒井健著(講談社現代新書)
以前に買っておいたものだが絶版になり最近再びちくま文庫に収まったらしく、そんなことであればそれなりに充実した本らしいということで手に取ってみた。ゴシックあるいは大聖堂の物語である。
ゴシックという名は、ルネサンス時代にこの様式をまるでゴート人の様式だと侮蔑して付けたらしい。ゴートチックということだ。
いわれてみれば確かにゴシック建築というシロモノはグロテスクである。ただ天にそびえる尖塔だけがその特徴ではない。ただ高く伸びるばかりでそこには計画性というものがないということだ。ゴシックの特徴とはこの尖塔に加えてステンドグラス、そして高い石積みを支える張り出したつっかえ棒のような「飛び梁」であるという。
考えてみればそれのどれもがグロテスクといえないわけはない。ステンドグラスなどは今では素晴らしいと誰もがいうが、ぼくはあんな色ガラスをはめ込んだ騒々しい窓などは落ち着きがなくてかなわんと思うばかりだ。
しかしもともとあれは宗教施設であるのだからケバくても仕方ないことなのである。宗教建築とは「妄想建築」なのだ。ネオンが瞬いていたかつての銀座に、疲れた男たちが幻想を抱いて吸い込まれるようにして向かったようなものである。現代でもそんな時代があったではないか。
高い石組をつっかえ棒で固定した姿はいうまでもなく悪趣味である。しかし今となっては古典建築としての美術品なので誰もそんなことは言わない。古典は良いところだけを鑑賞すればいいのである。
ゴシック建築は当時から必ずしも評判が良かったわけではなく、どちらかといえば悪かったと思う。庶民はそのために莫大な金と労働を提供しなくてはならなかったのだから。だからほとぼりが冷めれば急速にその建築は姿を消していった。覚めてみれば尖塔はいかにも戦闘的で殺伐とした、そして権威の象徴だけのような建物だったわけである。そのあとにはルネサンスが丸屋根のごく優しい雰囲気を持った建築に戻っていった。
だからその時代になってこの建築様式がゴート人の醜い建築としてゴシックといわれたのであった。
しかしだからといってグロテスクな建築がいけないとは思わない。グロテスクという語源もひもとけば「洞窟(グロッタ)」といった意味だったらしくそれは「いまだ未分化」な状況をさしているとも思われる。さすればグロテスクとは、何もかもが分化してしまった今日われわれの望むところかもしれないのだ。
得体のしれない未分化な空間、そこで何が起こるかわからないような雰囲気。これこそ人を迷い込みもすれば人の心を開放する空間であるかもしれないのだ。醜と美が混在することこそそれはグロテスクと呼ばれるにふさわしいのである。
腹を開いたときそこに見える内臓の塊がグロテスクなのはそれがまったく分別不可能なほどに混じり合っているからだろう。その内臓を一つ一つ分けて取り出してみればそれほどにグロテスクではないことがわかるだろう。
分別できないことが人をしてそれをグロテスクと感じさせるのだろう。あまりにもすっきりと分けられた世界にいると人は「グロテスク」に惹かれることがあるのだろうと思う。
この書物で知ったことは次のことだ。
当時修道院を中心にして森を開き田畑を作ったために農民はかつての懐かしい森を捨てて街に出なくてはならなくなった。そんな所でキリスト教が土着の信仰を持った農民たちを取り込むには、かつての森のような暗くて高い樹の林立する空間を必要としたということだ。
だからゴシックのカテドラルの中は林立する柱を持ち天井に枝のような梁を湾曲させた空間を作ったのだろうという。そこで農民たちは懐かしいあの森の中にいる感触を街で味わうことができたのだと。確かにあの天井の恐ろしく高い空間は人を厳粛にさせずにはおかない森のたたずまいである。
つまりはまだキリスト教が人々を取り込めなかった頃の出来事なのだ。だからゴシックの時代にマリア信仰が考え出されて土着の女神宗教であったはずの農民たちを取り込む手段にしたのも同じ原理だったはずなのだ。
キリスト教が「異教」的なものを否定しても抹殺できなかったものがゴシックには表れている。その後この「醜い」建築は忘れられたが、その異教的なものまでも忘れさせることはできなかった。
ゴシックは復活し称賛されることになる。ゲーテ(『ドイツ建築について』)がユゴー(『ノートルダム大聖堂』)がモネがそしてカルル・ユイスマンス(『大伽藍』)が自分の作品をこのグロテスクから発想したのだ。
その系譜を受け継いだエッフェル塔が当時数ある人々からグロテスクと批判されたのも無理はない。元々そういうものとして造られたものであったのだから。
もひとつ忘れてはならないのがバルセロナのサグラダファミリアである。あのグロテスクの権現のような建築物は今や完成されないという無計画性そのものに人々は惹きつけられているようである。
何もかもが計画され完成を求められ秩序立った現今にあって、あれはただ一つそういう時勢に抗うかのようにして林立している都会の森なのである。ゴシックの持つ現代性とは、宗教性でもなく荘厳なたたずまいでもない。「今」は確かに有るがこれからはどうなるかわからない、モノあるいはそういう状況、を具現しているのではないだろうか。

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