1600年代に実在したシラノという貴族の、実話をもとにした戯曲である。これをロスタンが書いたのはシラノが生きていたころから250年ほど後である。
この戯曲によって恋物語には新たな一つの典型が加えられたといっていい。
典型とはつまり、自分の恋を人に譲りその男のために一生を捧げてしまう、というシチュエイションなのだ。劇中のシラノが最期にいう「恋の殉教者」である。
この物語は鼻が大きいことを気に病んで恋する女性に打ち明けられぬ思いを、ある男の影となって自分の才能を思うままに発揮する男の話だ。しかし勘所は彼が女だけではなく、その相手の男にも同時に惚れこんだというところなのだ。そこがこの戯曲の秀逸なところなのだ。
シラノは剣をもてば敵なしの腕、詩歌を即興で自由自在にあやつる逸物だが、なぜか自分の醜さを気にかけて世のすねものを演じてしまうのだ。仲間も多いが敵も多い。「俺はひとに嫌われたいのだ」とまで言う。
とりまきは彼の大きな鼻を恐れている。それを話題にして殺された男も一人ならずいるらしいのだ。ところが新米の美しい青年が彼の目前でその鼻を揶揄するような大胆不敵な行動をとるのだ。彼は怒り心頭に達するかと思いきやその度胸に惚れてしまう。彼が美男子だったからこそである。
その上にこの青年が自分と同じ女性に恋焦がれていると判明するや、彼のとった行動は口下手の彼に代わって恋文は書くわ声色を使いプロポーズはするわで、すっかり彼女の心を溶かしてしまったのだ。しかしその相手はもちろん彼ではなくその美青年なのである。
戦場に行っても恋文を出し続けたために、女はいてもたってもいられずついに戦線まで駆けつけてしまうのだった。
青年は驚いて彼女を帰そうとするが彼女は毎日くれる恋文の素晴らしい文章のことを口にする。私はあなたの姿の美しさではなく魂の気高さに惚れてここまで来てしまいました、と。彼はまさか毎日シラノが戦場から手紙を書いていたとは知らず、その文の成したことに彼女が惚れたとすれば、それは俺じゃないと悩むのだった。もう俺の美しさには惚れていないのだと。そして打ちのめされた彼は最前線に飛び込んで深手を負ってしまうのだ。
彼はシラノに向かって、本当に彼女が惚れているのはあんたの魂なのだというのだが、彼の死の間際シラノはすべてを彼女に打ち明けたが、やはり彼女はお前に惚れていたぜと耳打ちする。もちろん作り話である。
そして彼女は青年の死に深く傷つき、彼のくれた「最後の手紙」(実はシラノの書いたもの)を肌身離さず、修道院で暮らすことになる。
ときは過ぎ去り、週一回修道院を訪ねて彼女に巷のできごとを話すシラノが珍しく遅れてくる。くる前に彼は暗殺を狙った者に傷つけられていたのだった。
彼女は編み物から目をはなすことなくシラノの話を聞いていたのだが、ふと、身に着けた「最後の手紙」をシラノに読んでほしいと言う。彼女にはいつもひょうきんなシラノがその手紙を暗闇の中で読み続ける声を聴いて、はっと彼女が振り向くのである。その声には覚えがあります。そしてなぜこんな暗い中であなたは読めるのでしょうか、と。
そう、もちろんそれはシラノが初めて彼女に書いた、命を懸けて書いた最後の手紙だったのだ。
彼女はあの声、あの手紙はあなただったんですねと初めて気づくのだ。(それにしても鈍い女である。)そしてシラノは息絶えるまで彼女にその事実を隠し通して逝ってしまうのだった。
壮絶な大団円である。まるで「歌舞伎」を見ているようだ。
これをみごとに映画化したのが、1990年のジェラール・ドパリュドゥ主演のフランス映画『シラノ・ド・ベルジュラック』である。この映画はほとんど原作を忠実になぞっている。もとが戯曲だからほぼそれを脚本にしたということだ。これもなかなかいい映画なのだ。特に最後の場面は泣かせる。
どうもシラノという人は実際こういう荒唐無稽を地で行った人だったらしい。実在のシラノはやはり詩人であり劇作家であり科学者であり剣術家だったのだ。本も出しているしモリエールに自作をパクられたとも言っている。要するに夢想家だったのである。
しかしこれを見ていて何かに似ていると思った。ぼくが考えていたのはカラバッジョの生涯である。絵画を描けば一流だがそれを認めない社会(教会)に対する確執が彼を無軌道ものにする。そのあげくに決闘を好みいいようのない反逆心に燃えて周りに敵をたくさん作ってしまうのだ。その中で少しの時間でも絵画を描けてしまう才能がある。まるでシラノが戦場で恋文を描き続けたように。そして最後はやはり自分で作り出した敵によって死に至るのだ。
カラバッジョもルネサンスの絵画に一太刀くれてやったのである。彼のおかげでルネサンスの絵画の常識に激震が走った。名だたる大家たちがその余波をまともに受けたのだ。乱暴者のカラバッジョでしかできなかったことかもしれない。
シラノはあり余る詩文の才能を持て余して反骨に生きるが、その原因は社会に認められないと思い込む己の醜さ(大きい鼻)である。彼は戦いの間も詩文を書きそれを手紙として恋する人に送り続ける。自分を追い詰めることによってしか詩の才能は開花しないかのように。彼は恋するロクサーヌには指一本も触れないのだ。もしかすると彼は詩を書くだけのための恋の対象を求めていたのかもしれない。カラバッジョが娼婦にマリアの姿を見たように。
シラノはカラバッジョのように野垂れ死にはしなかったが、今から見れば二人とも30代の若さである。昔はひとが生きることとは長く生きながらえることではなく、いかにして生を全うするかということだったのだとつくづく感じいったものだ。

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