人はなぜ道を歩いてはいけないのだろう。
いや言い換えると、人はなぜ道の真ん中を歩けないのだろうか。フツーに暮らしている限り人は一生涯広い道の真ん中を歩けないのである。いつもこんな疑問を抱いて道を歩いている。
そこは車が占有している。人はそれを車道といっている。人は車道に入れないが車は時として歩道に入っている。道は車が使うところなのだ。だから人は健気にどんな道でも隅っこを歩く習性になってしまった。
不思議なことである。
広い道の真ん中を歩いていたりすれば危険じゃないか。と人は言う。確かに危険だ。車にあたってその人は大怪我をしてしまうだろう。だが危険なのはその人なのだろうか。危険の出所はその人なんだろうか。モチロン危険なのは人ではなく車である。
人が道の真ん中を歩いていればそういう風に危険だ。それだから人は端っこを歩かねばならないのだ。危険は車のほうだがそれを事前に回避するのは人がすることなのだ。車は危険の出所だが50キロのスピードで走ってよろしい。しかし人は危険の受け所だがむやみに道の真ん中を歩いてはいけないのだ。そうしていると車の人から「アブねえじゃねーか」と声をかけられる始末である。なにか危ないのが歩いている人のようである。ほんとうは車が危ない原因なのに。そうすると人は、アッすいませんとか言うのだろう。
それが交通ルールというものらしい。
一度でいいから道の真ん中を、いや真ん中でなくともふだん眺めるだけで決して歩く機会のないせいぜい端の車線ぐらいは歩いてみたいと思う。狭い歩道を体を横にしてすれ違うのではなくまともに歩いていても人とすれ違うことのできるぐらいの所を歩きたい。
夜ともなると車は少なくなる。その道を俯瞰すると広い道の車道は誰も使わずただ人だけが狭い歩道を歩いている様子はまさにゴキブリが部屋の端だけをこそこそと歩いている図に似ている。人はゴキブリのようだ。道の真ん中を行きたいのなら車という入れ物に入ることだ。そうするだけで人は道の真ん中を行くことができる。
もしくは時おりアルコールという薬物を使ってその思いを遂げてしまう人がいる。最近はそういう手を使う人も少なくなったが、そうすればその人は交通ルールを守らない人ではなくただの「酔っ払い」という人になって決して人格を疑われることはない。この薬は便利なものでこれを飲(や)っていると変人扱いされない。が、素面で車道の真ん中を歩いていたら確実に変人か人格を疑われる人になってしまう。
ぼくはこの薬をやらないのでどうしても道の真ん中を歩こうとすれば、そう、デモという手を借りるしかないのだ。これはいい。一人でとはいかないが徒党を組めばこんなことができるのだ。非常識とか規則を守らない人とかいう誹謗を受けずに堂々と車道を歩ける。それどころか時々拍手なんかもらったりもする。こんないいことはない。車道を歩ける都合のいい機会である。昔は道のど真ん中を歩けたこともあったがその時は棒みたいなものを持っていたし、その夜は家で床に入ることができないかもしれないという感じだった。車以外の危険があったのだ。
ところで、311が近づくにつれモリモリと道の真ん中を歩きたいという欲求が強くなってきた。変人になるか、酒をやるか、デモをするか、どうしようか。

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