マクベス、ハムレットと読んで、なんだいどこが「天才」シェイクスピアなもんかという感じだったが、この『リア王』を読んですごいと思った。これにはすべてがある。つまり以前感心しまくった『オイディプス王』を越えるかもしれない作だったのだ。
要するに「悲劇」なのだ。
ということは今までの『ハムレット』や『マクベス』は悲劇と言うほどのものじゃないというシロモノだったのだ。この二つの作は「シェイクスピアを知る」ためならば何とか読む価値はあろうが一読者として戯曲を楽しもうという者にとっては、なんともドラマも筋立てもないつまらないものだったからだ。
しかしこの作品においてはひとつの型があり、それはギリシャ悲劇から構想を得た伝統を受け継いでいるのである。型というのは退屈にもなるが使いようで深遠にもなる。歌舞伎を挙げるまでもなく型があることは、その型にまつわるいろいろな以前見知った事柄をほうふつとさせる、つまり分厚い意味がそこに含まれるという効果があるのだ。もちろんそれを知っている必要があるのだが、だからそれを知らない子供には型というものは億劫なだけなのだ。
悲劇の型の伝統とは、親殺し、兄弟の対立、裏切りの逆説そして一家の断絶といった型なのだ。それはいわゆる型に過ぎないが、その中にどれだけの箴言や諺や教訓などを織り込み、なかんずく表現力に富む台詞を作っていけるかというところで作者の力量が発揮されるのではなかろうか。
ふと思うにこの『リア王』には神が出てこない。16世紀という昔に書かれたにもかかわらずシェイクスピアがいたって現代的にみえるのはこの「神」という狭雑物が入っていないからだ。つまり「人間ドラマ」になっているからだと思う。良し悪しは別にして「人」が物語の骨格を作っているからとても宗教国のものとは思えない。さすが人間中心主義に舵を切り替えたルネサンスの時代に書かれたものだと思ったのだった。ギリシャ悲劇をはじめとしてそれまでの神が出てくる物語はその「神」がシナリオを作ってしまうのだ。
この戯曲は、リア王が自らの愚かさによってこの国を悲劇に導いてしまう過程でだんだんとその人格が人間的なものに変わってくるという物語だ。しかしこの場合、器量の無いものが権力を持つと、人間性を獲得すればするほど狂気に陥らざるを得なくなるという皮肉でもある。人には分というものがある。この逆説がこの芝居の眼目だ。
プロットがいい。老いたリア王と三人の娘、グロスター伯爵と二人の息子、どちらの家にも親思いの子供と親殺しもしかねない子供がいる。この二つの家族がからむ筋立てがしっかりとしている。
物語の始めに、リア王の相続にからんで自分を大きくアピールするものが重く用いられて、自己顕示欲のない者は追われることになる。本当はそういう者たちがいちばん信頼できるというのに。そうした単細胞なリア王の描き方が何ともぼくをがっかりさせることになる、これも『マクベス』の二の舞かと。
しかしどうもこのあまりにも愚直な王を描いたのはシェイクスピアの計算の上だったらしい。ここで本を閉じないでよかったさ。
内気な王の末娘が父に媚を売らなかったことに腹を立ててリア王は彼女を追い出してしまい(とんでもない親である)、彼女をかばおうとしたケント伯爵を死罪同様にしてこれも追い出してしまう。なんともはや。
そしていきなり伏線が張られるが、それはグロスター伯爵の息子の兄弟争いなのである。ここでも内気な兄が弟の策謀によって父殺しの嫌疑を掛けられてしまう。そして逃亡する。つまり、もうリア王の周りには「不実者」だけが残り、味方となるべき人々をすべて追い出してしまうことになる。ここで舞台の基本的な設定が終わったのだ。
これで読んでいるぼくらに、後はとんでもないことが起こるだろうなと予測させるのである。まったくそのとおり。事態は読者の思うように進んでいくのだ。しかしそれがどう展開するかは未知数だ。ぼくらはそれを知りたくて先を読むことになる。
こういう作り方がうまい。はじめにドラマの大筋を見る側に予測させておく。その後は作者の本領発揮で、ほぼ予測のとおりに進むと見るや意外な展開も用意するのだ。このさじ加減が肝である。予測をあまり裏切っても現実感が希薄になり予想通りが過ぎても面白くない。ここが作者の腕の見せ所だ。そして作者シェイクスピアはこのあとにとんでもない悲劇を用意してこの物語を完遂させるのである。
ドラマを形作るこまごました事件が起こるがその中で印象的なところがある。
両眼をえぐられてめしいにされたグロスター伯爵が国を追われるのだが、同じく落ち延びるリア王を後追いしてついに力尽き、死んでしまおうと「平地から」身投げをする場面である。
その介添えをするものがわが息子であることも知らず、断崖絶壁に差し掛かったと言う彼の言葉につられてそこから飛ぶのである。彼はそこで足が地を離れた瞬間に気絶をしてしまった。
もとより平地でただジャンプをしただけのこと、息を吹き返したときは当然に何事も起こっていない。それを仕組んだ息子がもう一芝居をうって、これは鬼の起こした奇跡だと彼に思い込ませるのである。そこで彼は生きなおすことになる。この場面はまるで舞台で歌舞伎を見ているような錯覚に陥るほどに感動的である。この『リア王』でも舞台で演じられからこそ生きてくる設定ではないだろうか。
どうも伏線であるべきこっちの話のほうがリア王一家の話よりも芝居上の大きい山となっているのも皮肉ではある。
こういう仕掛けが随所に隠れているのだ。

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