面白い本を見つけた。なんたってこの題がいいじゃないか。
これを読んでぼくはこれまで疑問だったことにやっと納得がいった。それはこういうことだ。
旧約の「創世記」で神が6日目に人を造ったというところだ。神がおのれを「われわれ」と表現するのである。つまり「われわれに象って人を造った」というのである。
一神教であるはずのユダヤ教の神エホバを複数で扱っているのだ。これはいったい何?というわけで以前から疑問だった。やっぱ当時は多神教だったんでないの?なんて考えたものだ。
聖書をひもとけばすべて「創世記」のその部分はそういう風に書かれているのである。
それを例えば『世界の名著−聖書』などを見ると、隣に天使がいたので神はわれわれと表現したのだとか書いてある。しかしそれはあまりにもご都合主義じゃないの、と思っていた。
そしてこの本を読んで目からうろこが落ちたのである。
内村鑑三が質問者から三位一体論について訊かれた所でこう言ったのだ。
三位一体とは神と子と精霊のことでキリスト教ではこの三つが一まとまりとして神の重要な概念となっているのである。
こう言われてもぼくらには何のことかさっぱりわからないのだが・・。
いわく
「はじめに神、天地を創造りたまえり」、ここに神とある名詞は単数名詞ではありません。ヘブライ語の神という言葉の複数形であります。と。
そしてその後の「創造る」という動詞は単数形で書かれているというのだ。こうして旧約の「神」はほとんど複数形で表されているという。そして動詞は単数形で扱われている。つまりは三位一体なのだ。
これは父と子と精霊という、一つの神を象徴する三つの「ペルソナ」を表しているのだという。なるほど、と思う。だから神が自らをいうときは「われわれ」と表現するのだった。
これで長年の疑問が消えた。
内村鑑三という人は有名だが一度も読んだことはなかった。キリスト教かぶれの学者としか考えていなかったからだ。
しかし彼は本物である以上に過激である。当地ヨーロッパのキリスト教主流に対し、「無教会主義」を貫いて孤高にして過激。教会という建物あるいは組織に拘泥する外国の信徒を真っ向から批判する。
この本においても質問者と丁々発止の問答を繰り返して、引いては押し押しては引きの論戦を楽しませてくれる。なかなか面白い。面白いというのはこの質問者が決して内村「先生」をおだてたり持ち上げたりしせずかなりキツイ、ともすれば失礼とも思える質問を浴びせかけるからでもある。それに対する内村の正直な返答が読んでいる者の気持ちを打つのである。
昨今のテレビで見るようにシナリオを一歩も踏み外さないような対話はこの本にはない。あるのはドキドキするような言葉の投げあいである。

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