たった10歳の子供がバルセロナというビッグクラブに行った。
このニュースは日本をかけめぐり誰もがすごいなぁとため息をついた。それは期待と羨望のため息だったようだ。ぼくもこのニュースを嬉しく頼もしく受け取った。サッカーフリークのぼくにとってはサッカーが面白くなれば何でも良いことなのである。
しかし、もしメッシというスーパースターがいなかったとしたらこの「事件」はそれほど好意的に受け取られたとは思わない。
10年先の選手を買おうというのである。プロの世界では常識の「人買い」に他ならないのだ。それを10歳の少年に適用したのだ。それ以外ではない。日本人のメンタリティに照らしてみればこれは眉をひそめざるを得ない事態である。
それが、以前に同じように若くしてバルサに「買われた」メッシという選手がいて、今その選手が素晴らしいプレーを披露していることにおいて許されることになったのだ。というのはいかにメッシが愛されているかということの証明でもあった。
しかしそれですべてがうまい具合にいくとは限らない。人は夢ばかりを見るがしょせん他人事である。久保君が成功するかどうかはまったく未知数である。サッカー選手は一回の怪我で選手生命を無くすことさえ稀ではない。そんなことはいくらでもある。そんな時に彼の事をどれだけの人が覚えているだろうか。はしゃいでいる場合ではないのだ。
それでなくともぼくはこういうスポーツのあり方には批判的である。スポーツの本来のあり方ではないと思う。スポーツは金を生む道具であってはならないし賭けであってもいけない。
一個人がそういった冒険をすることはいつの時代にもあったことだし今もあっておかしくはない。スポーツにせよ芸能にせよある個人はそうして技を鍛え叩き込まれることはあるだろう。そうしてその個人はプロになり人を楽しませることに専念するのだ。
しかしそれがスポーツの常態となっては困る。スポーツの「精神」はあくまでアマチュアリズムなのだと思う。
今人々が久保君のあり方を諸手をあげて喜ぶという、そういう見る側の在り方がスポーツの精神に反するように感ずるのだ。それでは剣闘士に熱狂する太古の観客と同じではないだろうか、と。
今のスペインサッカーが異常なあり方になってしまっていることにも危惧をおぼえる。バルサとレアルだけが大金を動かし選手を買い漁っている。スペインの2強18弱という異常なリーグがまっとうなあり方とは到底思えないのだ。その異常な坩堝の中に10歳の少年を放り込むことが良いとは思えない。
一方でぼくは、サッカーは単なるスポーツではないという見方をしている。そこで何が起ころうともちっとも驚かない。こういうこともあるしああいうこともある。サッカーはすべてを含んでいるのだ。戦争も憎しみあいも愛し合いも傷つけあいも華やかさも悔しさも。そして驚くような曲芸師もいれば黙々と働く労働者もいる。ならず者もいるし紳士も哲学者も芸術家も教師も独裁者もいる。それらすべてがサッカーの元素なのだ。
だから久保君がいたって一向に構わない。この競技が心躍るものであれば良いのだ。
そういうサッカーが好きだから「久保ケース」も問題ないのだ。
しかしサッカーがスポーツだと思う人にとってはこれは看過できないことであるはずなのだ。スポーツの世界で、たった10歳の天才少年が世界一のクラブに買われたのである。

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