3月11日あたりからぼくの便通が良くない。別にそれほどの「不便」ではないのだが、鹿のウンコのように丸い小さなやつばかりがころころと出るのだ。紙を使ってもほとんどそこに便が着かないのが良い反面、出すときの力が要るのだ。つまり息まないと出てこないのだ。もう何ヶ月にもなるが今日もコロコロとした真ん丸い便が便器の底に見える。
少々疲れた。
こんな風になってから、ぼくはなぜウンコをするときに息むのだろうかということがよくわかった。
息むということは腹圧をかけることだ。腹圧をかけるとなぜ便が押し出されるのだろうか。腹筋と腰筋つまり腹回りの筋肉を使って腹を絞り込み、ケツの穴だけを緩めておけば出るのが当たり前と思っていた。しかし、便がこうも硬くなってしまうとそうやって腹全体の気圧を高めてもなかなかすんなりとはいかない。腹を締めても肝心の便が入っている結腸を絞り込むことができないのだった。
考えれば腹全体の腹圧を高めてもその圧力が、腹のほんの一部に過ぎない結腸に及ぶには相当な腹圧が必要なのだ。今まで簡単にしていたことが実はけっこう大変なことだったのだ。
その上その結腸の中に「硬い」便が詰まっているとなるとそれは容易ではない。言ってみれば硬くなってしまったチューブの絵の具を押し出すようなものなのだ。
簡単に出していたチューブの絵の具がいつの間にか硬くなって指が痛いぐらいに力を入れなければ出ない、なんてことは誰でも経験することだが、それがおなかで起こっているのである。腹圧をかけることは硬い絵の具チューブにスポンジを巻いてその上から手のひらで押しているようなものだ。到底出るものじゃない。それを今ぼくはお腹でやっているのだった。
何とも疲れるはずだ。
しかもこの暑い時勢にである。誰もが汗だくになって出てきた昔のトイレ事情を思い出してしまった。
しかしこういう考え方を人間機械論と言うのだ。
ヒトの結腸は絵の具のチューブではない。チューブは自分で動くことはないが結腸は動くのだ。ウンコをひりだすのは単にチューブを握るようなものじゃない、物理的圧力だけではなく自ずから便を送り出す動きをしている。
事はそう簡単な仕組みではない。
身体を機械と見立てて人はいろいろなことを「発見」した。科学はそうして発達してきた。
しかし機械は故障したときに原因をたった一つ見つけ出すだけで解決することがほとんどだが、人の故障はそうはいかないのだ。
例えば自転車のブレーキが鳴く(キーキーと音がすること)原因はブレーキのゴムとリムの間隔が正しくないからだ。その位置関係を直せば確実に鳴かなくなる。原因はここに在りというわけだ。
そういう機械論(科学)が人の病気を一元論に導いてしまうのだ。あたかも身体の不調を一つの原因を取り去ることで解決できるような幻想を抱かせるわけである。からだの不調の原因は一つではありえない。
ぼくのウンコも出すことばかりに気をとられているが要は便が軟らかくなればいいことなのだ。そしてそれは水をたくさん飲むことでもないし運動することばかりでもない。言えるのはぼくの身体の中で「何か」が起こっているということだけだ。それが何かはいくつかの原因が考えられるが、これも本当のところはわからない。
人の身体はストレスだけでもいかようにも変化する。あの3月初旬からのころころウンコは、原発が爆発したことの気鬱がなせる業なのだろうか。

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