図書館で『猫の一年』という、金井美恵子が書いたエッセイを借りた。サッカー好きのちどりさんがサッカー話に事寄せてこの人の文が楽しみ、と言うからだ。それなら読んでみようか。
金井美恵子の文章ははじめて読むが、煩雑である。
それでもつい読んでしまった。
猫の一年という題があらわしているのは、つまり、猫の一年は人間で言えば4年だということにある。猫の寿命は人に換算するとそんなものだってことだ。
彼女には飼い猫がいる。その猫が死んだ。なんと猫の一生は短いのだろう。その猫の一年、つまり彼女の4年間の思いをつづったエッセイなのだ。
しかしこの本は、だから猫のことばかりがうじうじと書かれているわけではない。
なぜかこれはサッカーに関するエッセイなのだ。そこが何とも不可思議だったので読む気になったわけだ。猫の一年がなぜサッカーとつながるのか。
それはつまり彼女の4年間がワールドカップの開催期間と重なっているからだ。それにしてもなぜサッカーとは無縁(だと思われる)この人がワールドカップなんだろう。ま、ぼくにとってサッカー記事であればなんでも良いのだけれど。
この金井という人は、2006年のあのワールドカップあたりからどういうわけかサッカーに拘泥し始めたようだ。そこに何があったのかなんてことは書いてない。ただ飼い猫が18年生きて死んだ、そのことから思い返して猫を飼った際にサッカーと出会ったという風に書かれている。しかし拘泥し始めたのはどうもあの2006年のドイツW杯あたりらしい。
そしてホントウにサッカーが好きなのかどうかも判然としない。とにかく、拘泥(つまり、いやにこだわっている)していることは確かである。
どうもサッカーというよりもそれをやっていた中田英寿という人物にこだわっているのだった。それも決して好意をもってという類ではなく、彼と彼を取り巻く報道にこだわっているのだ。
ま、それもどうでも良いことだ。つまり誰にこだわろうとそれでサッカーが好きになってくれればぼくとしては言うことはない。
彼女はその上にまことにうがった見方でその後サッカーを見続けているようなのである。それも悪いことじゃないし、かえってぼくは好感を持ってしまうのだった。ひねくれ女は意外と好きだ。
といってもこの本を開くとのっけから何だかわけのわからないごたくを、それもいい加減読みにくい文が高射砲のように撃ち続けられるのだ。まったく何を書いてんだかという風に。しかも片っ端からサッカーに関係する者たちをけなしまくっているではないか。そこには彼女の中に、ある怒りみたいなものがあるようだ。いったい何に怒っているのだろう。
それでも本を閉じないのは、ぼくの中にもその種の怒りのようなものがわだかまっているからである。
好きになったモノには容赦をしないという姿勢でもある。それもぼくは直ちに受け入れることができる。
ヒデがドイツ大会で、最終のブラジル戦で大敗して、そのあとにピッチ上に仰向けに倒れ込んでしばらくの間動かなかったあのシーンを、彼女は劇的な自分に対するナルシズムのなせるわざだと一応とらえているのだ。が、しかしその行為そのものよりもその行為を劇的な幕切れとして伝える報道やサッカー関係者について、憤懣やるかたないという感じなのである。
昔からサッカーを見続けているぼくなどはついあの場面に感傷的になったり、深読みのヒデ賛歌になったりする物言いについほだされてしまうわけなのだが、彼女にそんな芝居は通じないのだった。
一方で、あの時にそうしたヒデの行為が、サッカーを長ーく見続けたものには否応なくある種のノスタルジーを引き起こすものだということを、彼女は知らない。
だからかえってぼくも「そう思った」のである。彼女の言うとおりだと。
知らないということは強いのだ。
そしてぼくは彼女が詩人だったことを思い出した。
そのことでなおさらこの面倒なエッセイ集を理解することに役立ったわけだ。要するに詩人というものは他人の評価を気にして文を書く手合いではないということだ。
詩人は文を武器に世間と闘う人間であって、世間に受け入れられる(つまり売れる)ためにモノを書いているのではない。その定義に従えば子供にもわかるような語呂合わせの「詩」などを書き流している人はもちろん詩人なんかではない。
とここまでほざいて、ぼくは金井美恵子の詩をまったく読んでないことに気付き少々尻込みをしているわけだ。こんだ、金井の詩を読んでみようっと。

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