もう頭にきっぱなしの原発事故。今までの度重なる小事故であの施設がかなりずさんに計画されていることは百も承知。それでも日本人はそれを許してきた。まったくおめでたいとしか言いようがない。
皿回しはひとつぐらいなら誰でもできる。しかしそれを一度に三つ回せといったらかなり難しい。さらにそれを丸い玉の上でやれといわれたら誰がそんな事をするだろうか。
おめでたいという性癖は悪いことではまったくないが、「悪いやつ」はそこに付け込むのだという事を忘れちゃいけない。はっきり言って原発に群がる人間は「悪いやつ」だと思っている。彼らをひきつけるのは多分そこに動く「金」だ。一度手をつければ永久に金が動く。ま、そんなところだろうとぼくは思っている。
今まで原発が何を言い、何を隠してきたかを考えればとんでもないシロモノだという察しはつく。
こういうのをシロートの感という。
で4月10日、二日前に知った反原発デモに行った。何かじっとしてられなかったのだ。ちょうど大災害から一ヶ月目の日だった。
その主催者が「素人の乱」という。いったいこれが何者なのかわからないが、言い得ているのだ。そう、ぼくらシロートは専門バカのように鈍い感覚は持っていない。
チャリで1時半には着いた。高円寺駅から少し下がったところにあるそれほど大きくない公園にはすでに人がいたがまだこんなもんかというほどでしかなかった。しかし人の波は駅からどんどんとこちらに向かっていて、ぼくはもっと来いもっと来いと心の中でつぶやいていた。まだ公園の周りに整列している警官隊のほうが目立つほどだものな。
ぼくはチャリで来たのでそこら辺を回ってみた。ぐるっと回って駅前に行くと人が改札からどんどん吐き出されてくる。駅前では原発反対のスピーカーが流れその人たちを案内している。
公園に帰ってみるともう人の数は公園にはおさまらないほど増えていた。公園周りの道路は埋め尽くされた。制服警官隊の姿は消えて代わりに私服が周辺にたむろしている。相も変らぬケーサツのデモ対策である。ぼくはコーヒーを買いに行き一息入れて3時のデモ出発どきに再び戻ってデモの隊列に入った。
このデモはほとんど自前のチラシやプラカードを持って参加している。楽器を打ち鳴らしている者(周りの乗りが今一ちょ)脚長器具をつけて歩く者(疲れるだろうな最後まで休めない)ぬいぐるみを着た者(暑くて大変)ずっと怒りまくっている人(そうそうと合いの手を入れてあげたかったが)子供連れの夫婦(途中で帰っていいよ)シュプレヒコールしている者たち(なんかこっぱずかしそうに)そして大音響のレゲエのリズムが響く。
ぼくは青梅街道を過ぎてほぼ半ばほど行進したところで飽きてきた。せっかく自転車という機動性のあるものに乗ってきたのに、それを引きながら隣の警官とぶつくさと小競り合いを繰り返していることにいい加減飽き飽きしてきたのだ。
それでこのデモの全体像を見たくてトップからアッチへ行ったりこっちへ来たりしてずっと戻っていったのだ。今日はどこでどう道を横切ろうが警官はデモに釘付けでチャリの走行にはお咎めなしだ。
ところが行けども行けどもデモ隊の列は続いている。何しろ一車線にデモ隊が押し込められているうえに交差点で車を通すので切れ切れになっちまうのである。だからあの面としてのボリュームのあるデモ行進じゃない。川の流れのように、である。
それにしても凄い長さだった。もうぼくは行ったり来たりしながら、途中で思わずレゲエに聴き入ったりして走った。それにしてもいつも思うことだが、なんでレゲエ音楽は乗りがいいんだろうと思ったものである。あのリズムはいったいからだの何を揺さぶるのだろうか。まあ、ボブ・マーリー系じゃなければ乗り切れないけどさ。
それから、先頭が高円寺駅(解散地点)に届こうかという頃に、ざっと最後部に走ってみたのだが、何とそれは今歩き出してやっと広い道路に出たところだった。ほぼ人の数珠のように繋がっていたのである。人の鎖といってもいい。でも数珠といい鎖といえばその響きは何となく不気味でもある。原発が人間の末期の象徴のように思えてならない。
核反応はとてつもないエネルギーをつくりだす。そのエネルギーは人を殺し物を破壊するために開発された。そのさまを、日本人が世界で初めて知る人間となったわけだ。
それから「平和利用」という言葉が生まれたが、皮肉にもその言葉自体がそもそも核エネルギーは軍事利用が主体であると言うことの裏返しだ。平和的にも利用できるよ、と。
しかしながらもう原発自体がまったく平和的なものじゃないと誰でもが気付いている。
原爆の親の時代につづき、第五福竜丸の「死の灰」の恐怖のニュース。それは子供のぼくらの記憶する初めての核との出会いだった。放射能が空から降ってくるといわれて雨の日には帽子をかぶって学校に行った。その後、旧ソビエトが原潜をどれだけ海に沈めてしまったか。核の廃棄物がどんなに長く地中に埋め続けられなければならないか。そんな危惧と時を同じくして一方で原発の事故は起こってきたのだった。スリーマイル、チェルノブイリという大きな事故もあった。
そしてついに。
何と日本人はおめでたいのだろう。
このとてつもないエネルギーで何をするかといえばタービンを回すというごく原始的な事をするに過ぎない。
やかんの口がピーッと鳴るあの現象を作り出すのに何で原子力などという手に負えないものを使うのか、ぼくにはそのあまりにも落差のある発想が理解できない。

6