正月からここまで、天皇杯決勝、高校サッカーと来てアジアカップを見ている。(もうテレビはスポーツ中継以外はほとんど見るべき物がないというのが現状だ。)
そしてサッカーはどう変わったかということだ。変わった点もあり変わらないところもある。
元日に行われた天皇杯の決勝、これは単に一国の頂点を目指す戦いという位置づけから、今ではアジアチャンピオンズリーグへの出場を賭けた戦いという位置づけに変わってきている。その上には世界クラブW杯への道が開かれている。
これはサッカーというものが限りなく世界に開けているというひとつの表れなのである。スポーツでありながらいまや単なるスポーツと言うにはあまりにもグローバルな催しになっているわけだ。
そしてサッカーの原則としてホーム&アウエイ方式が基本にあるために、できうる限り相手国の地にも遠征しなければならないという事情もある。それがまた国境を越えたつながりを生むきっかけにもなっている。
それには例えば今戦争をしている当事国同士であっても、あるときには同じピッチに立たなければならないということにもなる。それが時としていい結果をもたらすこともあるというわけだ。
もちろんその逆もあろうが今までそういう悲しむべきことが起こったという記憶はほとんどない。人は面と向かっていると、顔を見ずに憎みあっていることほどばかばかしいことがないと感ずるものなのである。
鹿島アントラーズが優勝したこの天皇杯決勝を見ていてついそんなことも考えてしまった。なぜなら今期鹿島はリーグ戦、Jカップ戦とひとつもトップに立っていず、リーグ戦の3位も逃した結果アジアチャンピオンズに行くにはこの天皇杯を勝つしか道はなかったのである。
全国のあらゆるチームが挑戦してくるこの天皇杯というカップ戦は一度の負けも許されないトーナメント式なので強いチームといっても優勝するには並々ならぬ精神と運が必要なのである。その戦いで見事優勝を飾りアジアへの切符を手にしたことはやはりアントラーズが並みのチームではないと感じさせたものだった。
そして年末から年始にかけて行われた高校サッカー選手権である。これを見てずいぶん高校生も「プロ」になったもんだと思ってしまった。かつての「高校生らしさ」など微塵もない。それがいいとか悪いとかではなく、それだけプレーが洗練されてきたということだ。
また、以前ならば「常勝チーム」といわれる高校(いわゆるサッカーの名門校だ)があったのだが今ではそんなものはない。ここ6年間優勝チームがすべて初優勝高ということがその群雄割拠のさまを語っているではないか。しかもそれが品質低下の結果ではなく驚くほどの質の向上を伴った結果なのだから、見ているほうは楽しいばかりだ。
今年は4強に残ったうちの3校が初見参だった。しかもそのそれぞれがチームの「型」を持っているのだから恐れ入ったのだ。まさしく「プロ並み」である。
もし今でも「高校生らしい」サッカーが見たければ地区予選を見ればいい。そこでは勝つためにだけ汗を流している若者がいるはずである。
しかしこのように向上した高校サッカーが、将来の日本サッカーを強くするかといえば、またそんな単純なことはないとも思う。
今のアジアカップを見れば、そう思うしかない。明らかにいいチームであっても勝ち負けに限っていえば、順番どおりに勝つということにはならないからだ。日本は格下といわれるチームにも苦戦を強いられている。それは韓国もオーストラリアも同じである。そこで勝ち切っていけるかどうかは、単に質の高さや上手さだけでは計算できないところがあるのだ。
だから高校サッカーがいくら品質向上したとしてもそれがそのまま日本の強さにはならないということも覚悟しておかなければならないことなのである。
早くにまとまってしまった若いチームは、えてして伸び悩むものなのだ。早熟は困難に出会うと弱いものだ。
サッカーとは日々研鑽を積むことである。少しでも気を抜いてしまえば後戻りをするのにそれほど暇はかからない。まるで民主主義の法則のようではないか。ほっとしていると知らない間に過去に戻ってしまうのだ。

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