ギリシャという時代がだんだん分かってきた。もっともその頃に書かれたものの中でのことだ。
ホメロスの『イリアス』と『オデッセイア』の物語は、ま、有体に言えばそのころの価値あるものとはいったい何かということである。この物語のほとんどは戦闘によっていかに蛮勇を馳せたかということであり、男の価値とは強くあることだった。女はまるで影が薄い。ただ綺麗だけが価値あることだったしその生命の与奪は男に握られていた。
そして男の価値のもうひとつは各地を荒らしまわってどれだけの貴重品を奪ったかということでもありどれだけの奴隷を手にしたかということであった。
こういうと何だかまるで野蛮で面白くない時代じゃないか、ということになる。何だいすべて強奪行為が幅を利かせていた時代じゃないか、と。
実際そうなのだから仕方がない。
しかしだから書かれたものも面白くないかというとそうでもない。どんな盗賊でもモノを考えるからだ。だから彼ら「英雄」がいかにして戦いどんな思いを抱いて味方を守り敵を殺したかが分かると、後に展開される歴史のありようがなるほどなと頷けるようにもなる。
要するに今に至るヨーロッパ人が何でこういうものの考え方になったかということの一端が見えてくる。
おもしろいのは彼らがいかに敵を殺し尽くすかと算段するくだりにおいて、オリンポスの神々がその決定権を握っているということだ。書き手のホメロス(とその他の書き手たち)はやはり人を殺すことにおいて一抹の非道さを認識していたのじゃないか、と思われるからだ。そう考えるのは、すべての殺人行為を神々のせいにしているからだ。
神の名において異教の人間を殺すというキリスト教時代、その前もやはりこういう風に、すべての殺しは神が仕組んだことなのだという逃げ道をつくっていたんである。キリスト教時代のほうが確信犯的だが、ま、どちらにせよ人を殺すことにおける自己保身を予めはかっていることに違いはない。それがヨーロッパの征服原理なのだ。
話を戻すと、『イリアス』に書かれているのはトロイ戦の最後の戦いだけでしかもギリシャ軍のアキレウスが敵の総大将ヘクトルを殺すところまでである。だからまだその時はトロイ戦争は終わってないのだ。
『オデッセイア』ではすでに勝ったギリシャ連合側がギリシャの各地に帰還している。つまりトロイ戦争はすでに終わってしまっている。その帰還中にある軍団が嵐にあって英雄オデッセイを残して全滅した話が『オデッセイア』の話である。
だから、そのトロイを滅ぼすまでの記述をホメロスは書いてない。その中にアキレスの死がありパリスの死がある。またトロイが滅んだ決定的な「木馬作戦」も書かれてない。そういうことはすべて『オデッセイア』の中で、回想として簡単に触れているだけだ。
なぜその物語が書かれなかったのか、もしくは散逸してしまったのかはぼくは知らない。
その書かれなかった物語を書いたのが3世紀のギリシャ人クイントゥスの『トロイア戦記』だ。
これを読むとミッシングリンクがつながってトロイ戦争の最後とその後の物語がはっきりして読んでいるこっちもすっきりする。
これはかなり面白い本で木馬作戦において何があったのかということも細かく書かれているし、アキレスが実は戦死したのではなく神に殺されたということも分かってちょっとショックである。だからアキレスはついに戦闘において負け知らずでこの世を去ったことになるのである。
またオデッセイという男はけっこうずるくて嫌な奴だということもわかる。もっともそう思うのは日本人だけであって、ヨーロッパでは狡猾さも一種の男らしさであることもオデッセイを理解すれば納得できるわけだ。
ところがこれで終わらないのがヨーロッパ人のしつこさだ。
ローマ時代にエリギリウスという詩人が『アイネイス』という本を書く。これはトロイ戦争で負けた側のトロイの残党アイネイアスたちの物語だ。まるでオデッセイの冒険譚を彷彿とさせる筋立てで、イタリアの半島にたどり着きローマの礎を築いたという話になっていくのである。どうしてもイタリアの伝統をギリシャにつなげたいという切なる思いがローマ人にはあるのだろう。
当然ここでもギリシャの神様がものがたりの中心を担うことになる。やれやれ。
詩人といわれる人たちはこうして男の蛮勇を描いたが、哲学者たちは「人間そのもの」を追及した。文学者とはそこがちがう。
というよりもそういう風に人間そのものを追及した文学者を後に哲学者というに過ぎない。面白さでいえば言うまでもなく哲学者のほうが面白い。

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