中央公論社版の『世界の名著』シリーズのヘロドトスを読み切った。ペルシャ戦争の頃のギリシャ周辺の歴史ということになっている。
しかしこれは全体の3分の1ぐらいの量だという。それにしてもずいぶんこの本には「無駄話」が多いので、これが全書となればたくさんの無駄話を読むことになろう。
ヘロドトスという人は民俗学者である。
そしてエピソードが好きである。事実を追っていくというよりもある事件の傍流としてあった話みたいなことにいやに興味を示すのである。これが、この本が歴史家の記述というよりも民俗学のフィールドノートのようだという理由である。いや物語というべきか。
つまりこんなことも書かれている。
ヘロドトスの時代にソロンという政治家がいた。ギリシャの七賢人の一人である。彼の名はけっこう有名であるがソクラテスほど有名じゃない。
彼のエピソードで面白いのはクロイソス王との一件で、栄華を極めたクロイソスに対して決しておもねることなく、幸福とは死ぬときに栄誉の中で身罷ることができるかどうかであるということを例を挙げて言うところだ。
自分こそ幸福者だと自負するクロイソス王は、そのソロンの言葉に怒りを抱くのだが、時代が進んで彼がとらわれの身になり火刑に処せられることになってしまった。その火が身を焼く寸前にソロンの謂が現実になったことに気付き、思わずソロンの名を呼んだ。するとその耳馴れない名に敵将が彼を火から下ろしてその人物とは誰かと訊いた。そしてそのいきさつを話すと敵将は感動してクロイソス王の縄を解いて厚くもてなしたという。
ヘロドトスはこんなエピソードを書いているがとても本当のことだとは思えない。がしかし面白い話である。
こんな風だから歴史的に有名な戦いの場がなんとなくやってきてすっと通り過ぎてしまうのだ。その大事件と、ある人物の恋愛模様とが同じ比重で書かれていたりするのである。
だが、実際はそういう風に歴史は動いていっただろうこともわかるのである。その時代の只中にいれば、大事件といえどもまだ「歴史」となっていはいない多くの事件のひとつに過ぎないのだから。
われわれも半世紀近く生きていると今や歴史的事件となったことが「その時」には日常の中で起こったたくさんの出来事のひとつに過ぎなかった、なんていうことはいくらでも経験したってわけだ。
だからぼくらが日記を書くのはその時にその出来事が自分にとってどう映ったのかという「事実」を記憶しておきたいからである。人はなんとなく過ごしているうちに、その時には生々しかった事実を後に記録された「歴史」に取り替えて記憶してしまうのが常なのだ。
記録というものはぜったいに歴史としては残らないような「事実」を残しておくことでもある。つまりその事件のヒダのようなものだ。
のちに語られる一辺倒な歴史は決して事実ではないということをやっと解かる歳になってきたのだ。気付いたときにはもう人生はあまり残されていないというのに。
話はそれたがヘロドトスである。
彼はけっこうスキャンダルが好きでもある。今でいえば芸能記者みたいなものかもしれない。この『歴史』という記述もペルシャ戦争についての記事が多いのだけれど、なんだか「それ関係あるの?」ってなこともたくさん書かれている。なにもドンパチばかりが戦争読み物というわけでもないのだ、といわんばかりである。
分けてもどうも残酷な処刑とか女性が関わっている事件やスキャンダルが、歴史的事件と共にかかわりなく突如出てくるのだ。
これも例えばだが、ミイラのつくり方とかどうやって敵の頭の皮を剥ぐのかとかおどろおどろしい事も書かれている。なんたってアッチの人は何かというと牛や羊を殺して皮を剥ぐのだから、確かに戦いの最中に人間の皮をはぐくらいは朝飯前だったろう。そこら辺が日本における戦いと違うところだ。
これって今のスポーツ新聞の芸能欄的ですな。ぼくは芸能ニュースってのがだいっ嫌いで唾棄すべきものとしか思っていないのだけれど、こういったギリシャの本を読んだりすることは好きなんである。
内容がかなり似かよっているこういう読み物を読んでると、ぼくとしてもいったい自分は本当に芸能欄的事件が嫌いなのかどうかわからなくなってくるほどである。困ったものだ。
また話がそれてしまった。

0