ずっと以前にNHKブックスで出版された本だ。古いがいい本だ。
なぜかというと想像力をかきたてる本だ。
日本で宗教というものがいかにして形あるものとなっていったか、当初はアニミズム、呪術(シャーマニズム)として発祥したという。これらは決して分けられるものではない。
ほとんどが霊魂のようなものを想定して行われる色々な儀式を持つものが宗教だとすれば、そういう儀式の在りようは重層的に存在するし今もその例外ではない。つまりアニミズムもシャーマニズムもひとつだけで存在することはできない。
「宗教的なもの」や「信仰」というものはいろいろなものが多重的に積み重なって存在するものなのだろう。霊魂といえどもまさにそのイメージするかたちは世界の各地域においてさまざまだ。へたすりゃ個人においてもかなり違ったイメージを持っているかもしれない。「信仰」は決して一枚岩で在ることは出来ないと思う。
キリスト教をはじめとする一神教というごく観念的な、頭で理解して「人が」人に押し付けるようなものが出始める以前はたぶんこういう形で人間は霊魂なるものを扱ったのではないだろうか。
つまり未だ宗教とはなりえていない頃の原初的な「信仰」である。
実は今でもわれわれはそういう呪術的、霊魂的なものを人知の及ばないものとして扱っているのである。だからキリスト教も秘蹟とか神託とか言う要素がなければ世界宗教とはなりえなかったのだ。
例えば一神教というが、マリア信仰を始めとして各殉教者における信仰が複数あるということがカトリックを世界宗教にしたのである。ありていに言えば「多神教」なのだ。というよりもそうしなければ人々の支持を得られなかったのではないだろうか。キリスト教という外套を羽織ってはいるがその中身はもうぐちゃぐちゃなのである。
乱暴に言ってしまうとプロテスタントなどは現在の資本主義の中で各「業種」に身も心も捧げることで成功している。これは一種の多神教の別の現われとも言えるのではないだろうか。
だから宗教以前の「信仰」は今でも生きているといわざるを得ないわけだ。
そして今でも流行っている占いやオカルト文化なども結局,形を変えた呪術から人は離れられないということなのではないだろうか。
口に出して言うと災いがあるというような事柄は日常に今でも生きているし、ぼくらはそのタガの中で暮らしているといってもいい。つまりそれは言霊という「信仰」なのである。その中でぼくらは人に気兼ねをしたり、言ってはならないことを自ずから守っているというわけなのだ。
そのありようは国や地域によって異なるがそこの習慣と社会的な決まりはそうして作られているのである。
つまりあとから来た宗教というものが人間界を支配しているようで実はぼくらは「宗教以前」のやり方を今もって捨てることはできないということかもしれない。
人が考え出した「神」がではなく、どうしようもなくそこに有る獏とした「なにか」が今も人を支配している。その得体の知れない「なにか」に畏れを抱いて人は目に見える「神」を作ったのだ。
科学とやらが発展したからといって人間がアニミズムやシャーマニズムから自由になることはない。かえってさらにその傾向が加速されてきたような気もするのだが。

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