子供を生んだとたんに子供嫌いから子供ファンに変身してしまう女性ってのがある。子供ってすごい!なんてね。それまで子供をよく観察していなかった証拠である。自分の子供となるとそりゃもうしっかりと観察するものである。ま、そうでなければ困るのだが、だからといって突然子供ってすごいなんて言われてもなぁ。と思うのである。
そのなかで多くの人が言うことは、子供のコトバである。
子供はまったく意外なコトバを意外なところで発するものだからおとなはちょっと面食らって感心する。そこで子供は詩人だとか、子供は哲学者だとか言う感想をもらすのである。
それは半ば当たっている。おとなはもうすっかり俗にひたり切っているから、俗のコトバしか使わない。そのうちにホントウのコトバというものを忘れてしまう。だから子供のコトバに接して改めてそのコトバの意味を考え直すのである。もちろんその子供が自分の子供だからこそ、そのコトバを「聞く耳」を持っているということでもある。
しかしコトバというものはただのコトバだ。そのコトバをありきたりのものとも新鮮なものとも聞けるのはいったいなぜだろうか。
今言ったように聞く側の「聞く耳」ということもあるが、それは人によりけりで必ずしも一様ではないだろう。そう聞こえる人もそう聞こえない人もいる。しかしそれを差し引いても子供のコトバは確かに、誰が聞いても心に響くということがある。そういうことが多い。それはなぜなのだろう。
それはたぶん子供はコトバに自分の魂を乗せているからだろう。全身全霊でコトバを発している。だから子供のコトバは正しい意味でコトバの原初の使命を果たしている。つまりコトバは魂を伝えるものであったのだ。それがホントウのコトバなのである。
言葉を変えれば子供のコトバにはウソが無いということだ。子供は不必要なことを人に伝えようとはしないからだ。
そしてまたもうひとつの条件がある。それは子供はコトバの数が極めて少ないということである。言葉の数は多くなればそれだけ饒舌になるかといえば、そうはならないのが常である。おとなのコトバはなんと無駄で多様なコトバの羅列だろうか。それはまるで垂れ流しのよだれのようで始末が悪い。子供のコトバは限られているからこそ、そこに謎が含まれている。それが詩人とか哲学者に見えるゆえんである。
言葉が少ないということがなぜ良いかというと、魂が乗りやすいからだ。なぜならば魂を込めて言わなければ少ないコトバで多くのことを言い表すことができない。子供が限られたコトバで違う表現を可能にするのは、コトバに精一杯の魂を乗せるからであり、乗っかっている魂が違うからである。
まあ、子供のコトバが新鮮なのも物心が付いた頃のごくわずかな時間だけというさびしい現実もあるが、それがずっと続いている子供もなきにしもあらず。
そこでぼくらが思い出すのはかの「あはれ」というコトバだろう。平安の時代に「あはれ」という感情表現は多種多様に使われてきた。そのコトバにいろいろな魂が乗っかっていた。その当時はそのコトバが生き生きとしていたに違いない。
で、ふと気付くと今でもそれは生きているかもしれないと思うわけだった。
女子の使う「かわいい」である。女性が「かわいい」を発するときはなぜかウソがない。だから魂がその「かわいい」に乗っかっている。だから「かわいい」が多様な表現の代わりを果たしていて、常套的な褒め言葉よりもずっと情感があるのである。そういう意味ではこの「かわいい」はよく使われるが、常套句とは一線を隔していると言うべきだろう。(常套句というものは同じような意味だけを言うコトバでしかもほとんどは何も伝えないことを本業としているコトバである。)
でも、だからといって「かわいい」はコトバの貧弱なおとなを救うことにはならないけどさ。

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