感動した場面を見た。感動というのはいつも良いことばかりとは限らない。
チャンピオンズリーグの準々決勝第二レグ、マンチェスターUがバイエルンに蹴落とされる。この番狂わせには驚いた。
第一レグはバイエルンのホームで1−2と負けたがこれは脅威とは写らなかった。なぜなら圧倒的にチームとしてはマンUが勝っていたからだ。しかもアウエイで1得点しているからホームでは1−0で勝てばいいのだ。その可能性は十分すぎるほど高かった。
さてそのホームでの第二レグである。マンUは開始数分で得点。さらにたて続けに2点目をあげた。もう決まりだ、とだれもが思った。加えて駄目押しともいえる3点目が前半のうちに入ってしまった。3−0、今のチーム状況ではバイエルンの敗退が決まったも同然である。
ところがここから試合が激変した。
まず選手が勝ちを確信してしまった。これは危険なことだ。サッカーの試合はまっこと「下駄を履くまでわからない」といわれるとおりだ。3−0というスコアは圧倒的に優勢に見えるが、ホームでの失点はこわい。
つまりバイエルンのほうから見るとこの時点で2得点で勝ちを取れる状況なのだ。しかしあまりにもチームの力の差が有るものだから、マンUの選手たちはもう決して負けるなどとは思わなかった。3点目をあげたナニが勝ち誇ったようなバク転をしたことでもそれがわかる。
落とし穴はその思い上がりだけではなかった。少し前にルーニーが相手ディフェンダーに足をさらわれて先週傷めた足首をさらに負傷していたのだ。それで彼はまったくプレーができなくなってしまっていた。チームの雰囲気が変わった。だれもがルーニーの負傷に気をとられてしまったのだ。まるで彼らから気迫というものが失せてしまったかのようだ。それは見ていて恐ろしいほどの変わりようだった。
そうこうしているうちに前半が終わる前にバイエルンは1点を返す。つまり3−1で前半を終えたのだ。まったくマンU楽勝のはずの試合が一点勝負の試合に変わってしまったのだ。つまりバイエルンは1点挙げるだけで勝つ(二試合合計でドロー、しかしアウエイの点差で勝ち抜けだ)ことができる状況に変わった。これは大きい。
ここで試合の機運を変えたルーニーへのタックルを考えてみたい。
バイエルンのファンバイテンは故意にルーニーの負傷した足にタックルをかけたように見える。ルーニーのの足首は先日伸び切った靭帯がこらえきれずに、まるであの頑丈なルーニーの足ではないかのように簡単にひん曲がってしまった。恐ろしい光景だった。
このタックルをどう見るか。
日本人ならほとんど間違いなくこのタックルを非難こそすれほめるなんて事は決してないだろう。一人の選手をつぶしてしまうほどの反則プレーだ。やってはいけないことだ、ということになるだろう。
しかしぼくはこのプレーに違うことを見るのだ。それは日本チームに関して、いったいこれほどのことがあるだろうかと。つまりバイエルンの選手はチーム力で劣るわがチームが勝つためには何が必要かと知らずの内に体を動かしていた。
彼は考える間もなく相手の主砲を潰す力わざに出てしまった。ルーニーの足に決定的なタックルを見舞うことこそが自軍の勝利には欠かせないと。それは意識の上ではないだろう。もうそういうことが身に染みついているのだ。つまりそれほど勝ちたいという気持ちが強かったのだ。
その結果かどうか、一点を追加したバイエルンが準決勝へと進んでしまった。
「勝ちたいという気持ち」というのはそういうことなのだ。それはいいとか悪いとかいう問題とは別に「在る」ものなのだ。
よく日本の選手たちが言う言葉で「勝ちたい気持ちの強いほうが優勝します」なんてことをまるで常套句のように言う選手がいるが、いったい彼はその言葉の意味をわかって言っているのだろうか。勝ちたいという気持ちは「世界を敵にまわしても」やってやるということなのだ。自分がどれほど非難されようとである。
この日のバイエルンには、そしてこの選手にはそんな痛いほどの「勝ちたい気持ち」が伝わってくる。まともにやっては勝てないという悲しいまでの叫びが聞こえる。
何回も言うが良いとか悪いとかじゃなく彼にはそういう気持ちがあったのだ。この落とし前がルーニーの大怪我につながるかもしれない、そして偉大な選手をつぶした犯人として自分に世界の目が注がれるかもしれないのだ。
ぼくはこの試合の映像を見ながら妙に感動を覚えたのだった。背筋が寒くなるような。

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