サッカー日本代表は今どん底状態にある。どこの国もそういう波があるといえばそうだが日本の場合はちょっと違って根は深い。日本人のメンタリティがそうさせているといって良い。
つまりありていに言えば、サッカーは戦いなのだ。
闘争心が希薄な民族というものがあると思う。日本はそれに当たる。決してそれが悪いわけではないが、そしてそれはかえって良いことだとも言えるのだが、勝負を争うスポーツをしている間だけはそのメンタリティをチェンジしてほしい。それは可能なことだしそれほど難しいことではないと思う。
仕事では身を粉にして働く闘争心がスポーツにおいて出来ないことではないのだ。かつての日本人はそうしてスポーツにおいても闘争心を発揮してきたように思う。それが今、なぜできないのだろう。
最近、対照的な二人のサッカー選手が注目を浴びていた。一人はドイツから戻ってきた小野伸二だ。彼はJリーグ復帰の抱負をきかれて「サッカーを楽しむ」と答えていた。相変わらずである。
彼にはそういう哲学があるのだ。サッカーは楽しむことだというアマチュアリズムが彼の哲学だ。一貫して小野はそう言ってきた。これは個人的には立派なことだと思う。
なぜならば彼は類まれな資質を持っていて、苦しんでサッカーを突き詰めればすごい選手になれたがそういう選択をしなかったのだ。「世間的な成功」を追わなかった。その一貫性には脱帽である。彼はサッカーを楽しむことで見ている者も楽しんでくれればいいと、そう思っているらしい。そしてそれを実践してきた。
しかし、だからもちろん彼は世界の闘いとしてのサッカーには向いていない。その闘うサッカーとしての宿命を負っている[日本代表]にも向かない。ぼくはいくら巧くても彼を代表に呼ぶべきではないとそう思ってきた。そして今も思っている。
一方もう一人の注目選手、本田圭佑は対照的だ。彼は世界基準である。彼にとってサッカーは楽しむものではなく闘いであり何かを獲得するスポーツなのだ。だから多少技術に難があっても戦力にはなる。
そういう選手がいたことをぼくらは知っている。ゴン中山雅史である。本田のメンタリティはその伝統を受け継いでいる。とにかく前へ前へである。そして点を取るためなら何でもする精神である。
これは良いか悪いかという問題ではない。
今の日本代表はもちろん小野伸二に近いので、サッカーは勝たなければというよりも、どうやって美しくあるかということに力点がある。それはそれで良い。しかし勝とうとするなら、強くなろうとするにはそれではだめだ。今のレベルですべきことは何かということなのだ。
かってのイングランドサッカーはつまらないサッカーの代名詞だったように思う。ただ放り込んでぶつかり合うだけの大味なサッカーだった。それがどうだ、今じゃ世界で一番面白いサッカーとも言われるように変わった。
なぜか。どんな巧い選手でもあそこでは闘うことを要求される。闘うということはいっときも気を抜かないことなのだ。それをやっているうちに選手はその余裕のない、気を抜けない中で巧くなるしかないのだ。
つまり闘うためだけのサッカーを要求しても面白くすることはできるということなのだ。反対に面白いサッカーを追及して強くなることはできないのだ。面白さは強さの中にあるが、強さは面白さの中にはないのだ。
今の日本がどのレベルにあるかということを考えなければいけない。いうまでもないが少しでも強くなることが求められているレベルなのである。面白い必要は、今はない。それはあとからついてくる。
つまり低迷期の日本がすべきことは強さを鍛えることなのだ。それは身体だけでなく精神的な強さなのだ。日本人のメンタリティを変えることなのだ。ピッチに立ったら闘うことだけを要求することなのだ。
多分そうすると日本は勝てなくなるかもしれない。今のパスサッカーで勝ってきた代表は勝てなくなるかもしれない。試合の面白さも減るかもしれない。
しかし低迷期というものはそうでなくとも必ずあるものだ。低迷期こそ底から変える好機なのかもしれないのだ。
日本サッカーは冒険をするときなのだ。

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