この本は以前に買っておいて読まずに放っておいたものだ。まさかこれを読む時が来るとは思わなかった。そんなものである。だから書物は捨てられないのだ。
そして今回は一気に読んでしまった。今仏教のことを知りたいのだ。
これは友松圓諦というひとが、仏教というものが膨大な文書に掛からないとわからないということでは困る、と考えてせめて「聖書」ほどの短い、釈迦の説教集を作れないかと試みた本だ。
素人にとって釈迦の教えを簡単に読める本があればありがたい。いったい釈迦の生涯と説教とはどんなものだろう、というのが今回これを読むきっかけになった。
読んでみるとやさしくまとまっており読み易い。これで一応の釈迦の行状が分かったのでこのほかの本を読む手助けになる。というよりもいかなる解説書よりもこういった事実の著述が大切なのである。解説本はこれと平行して読めばわかりやすい。本とはそういう風に読むものだ、と今は思っている。
ぼくらはキリストの12使徒のことは知っているが仏陀(釈迦)の使徒はからきし知らない。考えてみればおかしなことだ。日本人は感覚的には仏教的な感じ方をしている国民だ。他のどこよりも。それなのにその根源を知らないのは教育が「宗教」を避けてきたことに原因がある。
しかし少し触ってみれば解るのだが、釈迦の教えはまるで「宗教」ではないことが分かる。
キリスト教はイエスがが始めたのではなく、イエスの弟子たちが彼の説教を広めるためにキリスト教団を創ったことに発する。仏教も釈迦が創ったのではない。釈迦はただ説法をして歩いただけだ。その教えを弟子たちが仏教として創ったのである。
だから、仏教の聖典を読むと、そこには仏教という宗教があるのではなく釈迦の説教が書かれているだけなのだ。もちろん「聖書」も然り。
仏典も聖書も、これが仏教だとかこれがキリスト教だとか、そんなことは書いてはないのだ。
先に言ったように仏教は「宗教」ではない。こんなことになぜ気付かなかったのかと思う。
キリスト教と決定的に違うのは「神」が出てこないことだ。釈迦は神を説いて歩いたのではない。彼の言葉に神というものは出てこない。
悟りを説いたのだ。悟りは誰かがやってくれるものじゃない、自分がすることなのだ。
そして世界全ての物事のダイナミズムを説いたのである。「常に在る」ということは無いのだと。だから「執着」を持たないことなのだと。そういうことを「身で分かる」ことが悟りなのだ。
こういうことを知るには原典に当たるほど分かりやすい。もとの教えほどやさしいものだ。解説本はかえってわれわれには難しすぎるのである。
それは『聖書』も同じで、読んでみればなぁんだこんな事が書いてあるのかと気抜けするほど単純素朴なことが書かれてあるのだ。
われわれ今の日本人は西洋的に(ヨーロッパ的に)モノを考えているが、感じるときはいたって仏教的だ。そのことが仏典と聖書を読むことでけっこう明らかになる。

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