今回は天狗岳がテーマである。
以前からこの東西に分かれた天狗岳を見たかったのだ、それをその場所で。
連休を逃すわけにはいかない。この前にさんざん雨にあって登った鳥海山のことを考えれば、こんないい天気の連休にどこへも行かないってことは悔いが残るだろう。しかし前の日になって、どうも明日は朝早起きして山に行くんだって気が起きないものだから、とにかく黒百合ヒュッテに電話した。明日泊まりますと。
こうしておけば退路は半ば絶たれたようなもの。こうでもしなけりゃ明日はとても腰を上げそうにない自分がわかっていた。
何しろ天皇杯はある、ワールドカップの予選は世界で佳境にはいっているという時だ、テレビをつけてポワンとしていればいつの間にか一日が過ぎてしまうのである。連休なんてそうあるものじゃないと言うのに。
10月11日(日曜) 黒姫ヒュッテに泊まる
遅めの出発で、新宿発11時の「あずさ」に乗った。
指定席について作ってきた握り飯とコーヒーを腹に入れて登山靴を脱いだ。そしたら、何と右爪先のラバーが剥がれてぱっくりと口を開けている。ショック。
この前の雨の鳥海山から帰っていちども靴を点検してなかったが、まさかこんなに劣化しているとは・・。夏の雨続きですっかり靴底の接着剤が取れてしまっていたらしい。よく見ると靴の折れ目の縫い糸も外側も内側もほつれてしまっているのだ。もうこの靴の限界だったようだ。仕方ない、持ってきたガムテープでラバーがめくれないように補強した。
この良い天気なら何とか歩けるだろう。今回はこの靴の弔い登山にしよう。
午後1時50分、茅野駅から渋の湯行きのバスに乗る。今回の登山口はこの渋の湯という終点から歩いて、黒百合ヒュッテという山小屋に泊まる予定だ。
バスはガラガラに空いていたがこんな登山バスの風景にももう驚きはない。みんな車で山に入ってしまうのだ。
午後3時前、終点の渋の湯で降りたのはぼく一人だけである。
バス停には下山客が列を作っていた。3時から山に入るというのはちょいと遅いかもしれない。
天気が良いというのはこんな楽しいものかと最近の雨の登山を思い出して思った。いくら歩いても滑って転ぶ心配が無いもの。足元は岩が多くて変化もある。林内は見通しはなく青い空が頭上にあるのを時おり眺めながら汗をかく。下山者が次々とすれちがって行く。さすが晴天の八ヶ岳、登山客は多い。若いのもけっこういて嬉しくなってしまう。
足元の岩はだんだん大きくなり岩の頭を探って歩くようになる。そろそろガムテープがはがれてきたので右足はなるべく平らなところを踏むように心がけることにする。パカッと口が開いてしまったらお手上げだ。用心に越したことは無い。
今日の行程は短い。4時35分にはヒュッテに着いた。
そして中に入ってビックリ。まるで列車内のような人いきれでメガネが曇ってしまった。いったい何人いるのだろう、すごい人数だ。
素泊まり5300円を払って「お部屋のご案内」とやらを待つ。といってもご案内されたのは布団一枚の場所のことで、やっぱりナといらぬ期待をしてしまった自分にがっくり。それにしてもしばらく経験していなかった奴隷船のような寝床だった。2階でも納まりきらずその上の屋根裏部屋に敷き詰めた布団にイザって入ったのだった。空間はすべて布団で埋まり、通るためのミチがない!
ザックはすべて1階に置き去りで布団にはライトだけ持参という条件だ。この寝床には、もう決心して寝ると決めた時にしか来れないと思ったな。新鮮な空気を吸いにさっそく外に出たが、もう外は寒かった。
防寒着を着込んで湯を沸かしアルファ米を食いコーヒーを入れて(ドリップである)一服した。空には星が砂をぶちまけたほど輝いていた。不思議なことにテント場のひと以外だれ一人としてこの星空の下に出てこない。外で騒いだり酒を片手に歓談したりしない、何とも上品な登山客ばかしなのだった。
外にいるとこのヒュッテ内に100人超のひとがいるとは思えないほど静寂なのだ。山小屋の情景も時代とともに変わってきているんだと思ったな。
10月12日(月) 天狗岳から南へ横岳
朝暗いうちからいつ寝床から出ようかと思うほど暑かった。なにせ人いきれで布団内が暑いほどなのである。暑いがはだける空間も無い。意を決して外に出てさわやかだったのは数分で、あとは寒くて寒くて。何しろあたりは真っ白に霜が下りてきているのだ。飯を作ってコーヒーを入れみんなが朝の食事をしている横で食った。それにしても自炊する人も一人もいないとはちょっと驚いたな。
6時40分に出た。
天狗岳には中山峠経由の尾根筋を選んだ。風が強くて寒かった。尾根に上がると左手の稲子岳は一方がすとんと落ち込んだ異様な山容でその下に雲海が広がっている。振り返ると今来た黒百合ヒュッテが見え、そこからのもう一つの天狗岳ルートの岩場を上がってくる人々が点々と見える。見晴らしという点からはこちらのルートのほうが良いかもしれない。
足元の土はガチガチに凍っていて、それを抜けるともう森林限界を超え岩だらけの道になる。前方右に天狗岳が現われて気合が入る。寒い寒いと思いながら岩のあいだを巻いて登っていくと正面に東天狗岳の岩のごつごつとした頂上がある。それに対して右に見える西天狗の柔らかい丸みを帯びた頂。対比の妙である。
7時35分、岩をかさねて造ったような東天狗に登り着いて展望を仰ぐと南に硫黄岳、北にはるか蓼科山が見える。この東天狗を含めていづれも岩の創り出した山頂である。
遠く眺めていたこの山はそれこそ霊性と厳しさを備えていた山だったが、着いてみたらただ岩で造ったようだ、ということはいったい何だろう。そこを人びとが占拠しているというだけの事がこうも印象を変えてしまうものだろうか。
いつも思うことだが、登ってみるとなにか達成感しかないというのも寂しい。それまでの山の威厳はどうしたのだろう。登ってしまうとそれまで思っていたほどの感慨がないということをいつも不思議に感じる。山とは登るものではないのかもしれないと、そういう時に思う。山は眺めるものなのだと。ひとは山に登ってしまうとそれがもう自分の手の内にあると、そう勘違いしてしまうものなのかもしれない。
西を眺めると鞍部をはさんで西天狗岳がある。やはりあっちにも行かなきゃなと思う。困ったもんだ。あっちは日の光を浴びて輝いて見える。ザックを置いて西天狗に登るとこちらは土が出ていて一面の霜柱が立っている。やはり西と東はまるで違う山容なのだった。
それにしても人が多い。今日の頂上にはどこも人がいてまるで写真の撮り合い所になっている。
今日は快晴だが風が冷たい。汗ひとつかかない。持ってきたボトル3本の水はまだ一本分が残っている。
性格の違う双子のようだった東西の天狗岳をあとにして南のガレを下りると左に本沢温泉に下る道がありすぐまた上りに入る。根石岳はすぐだがこれも岩の山だ。振り返った天狗岳の姿はまた違った形を見せてくれて美しい。
ここを過ぎると何も生えていない禿げた鞍部に小屋が見える。その根石山荘は昨夜泊まった黒百合ヒュッテとは雲泥の差で、トタン屋根に石が乗っかっている作業小屋のようなところだ。すれ違う人に訊いたが昨日の客は15人だったそうだ。
一旦林内に入りすぐオーレン小屋への分岐があって、少し歩くと夏沢峠に着く。
9時5分、ここにも二軒の山小屋がある。八ヶ岳は山小屋が多い。ここで握り飯を食い温かいコーヒーポットを空にする。
さあ前方にそびえる硫黄岳の登攀にかかろう。急登だが気分がいい。気をつけるべきは右の靴をなるべく安定した石に慎重に置くことだ。何しろ破損してしまったブーツのリペア用ガムテープがぼろぼろに剥がれてきているんだから。
もうそれほどこのルートに人はいない。天狗岳からここまでは八ヶ岳登山のエアポケットみたいになっているようだ。(南八つと北八つの分かれ目だ。)
一歩一歩足を踏みしめていけば高度がぐんぐんと上がり、左にかつての火山爆裂口跡の崖っぷちが見えてくる。すごい光景だ。遠くから見ればぼくはさぞ危ういところを歩いていることになるだろう。
大きなケルン様のモニュメントが三つばかし、それを過ぎれば硫黄岳の頂上に出る。これが頂上かと思うほど、何の高みも感じないだだっ広い石だらけの広場なのである。
さすがにここには人がいっぱいいる。なにしろ真正面に主峰の赤岳と阿弥陀岳があり、ここのぐるりは八ヶ岳の「顔」だもの。
10時5分、一息入れて横岳に向かう。石から砂へ砂から砂利へと変化の多い歩きが楽しめる。横岳近くの痩せ尾根はスリルに富んだ岩場で風が強ければ恐怖感さえ感じるところだ。右下に大同心、小同心の岩場が飛び出していて壮観である。クライマーが2人ロープを巻き取っていた。
11時5分、横岳頂上。ここでもう尾根歩きとはお別れなので少々時間をとって景色を眺めることにした。
これ以上望めないいい天気だったなァと思った。目の下の雲海が日の光で輝いている。その雲の海に島のように北アルプスの白い峰が連なり、南アルプスはまだ黒く影のように浮かんでいる。もちろん孤高の富士の山も、昨日の初環雪で白くなった頭を突き出している。
横岳を過ぎると赤岳がすぐそこに控えているが今日はここから下る。
11時30分、三叉峰へ。ここから真東に延びた杣添尾根に下りることになっている。ここまで来て赤岳に行かない人はないというほどに、この尾根に下りる人は少ない。
杣添尾根は人気がない。たしかに自分で下りてみて分かったが、面白い尾根歩きではない。見通しのあるハイマツ帯の尾根歩きはすぐに終わりシラビソの林内に入ると、展望は無いし足元はぬかるみはじめ、そしてとにかく長い。やはりというか人にはまったく会わずに下山したのだった。
午後1時20分、2時間近くの下りだ。足が棒になりかけていた。
しかもそれにもひとつおまけが付いた。
長々と歩いてやっと着いた登山口(下山口)は別荘地だったのだ。別荘地ほど始末の悪いものはない。まるで迷路なのだ。まるで同じような舗装道が網の目のように走っているが、道路標示がない。どこまで行けば目当ての「高原ロッジ」とやらに着くのだ!
人はいないし、いてもクルマ族ばかりで歩いてどう行くかを説明できない。何回も惑わされて結局倍の、1時間20分間もコンクリートの道を歩かされたのだ。
この高原ロッジは言わば別荘地のホテルであって登山のために泊まるほど安くない。しかしここから出る送り迎えのバスが無料で利用できる。
午後3時発のバスに乗り込んで野辺山駅に着いてようやくほっとできた。
おしまい。

天狗岳が近づいてくる。左・東天狗、右・西天狗

やさしい姿の西天狗を東から見る。

西天狗より東天狗を望む。

補修したガムテが剥がれかけている。

硫黄岳頂上は「広場」である。

横岳から正面の赤岳(左)阿弥陀岳(右)を眺める。

横岳から見た雲海に浮かぶ富士山。

秈添尾根のハイマツ帯を下りる。上が横岳。

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