3年ぐらい前に大当たりをとった音楽映画、という印象があってしかもビヨンセというアイドル風の歌手が主役という。それだけでもう、すこし距離を感じて、見る気が起きなかった。
どーせガールズグループの成功物語だろうなと。
しかしである、その予想は当たっていたが何とシビアな映画なんだろう。
世間ではどう評価されているか知らないが、よくこんなものが撮れたなと感心。
なんでかというとこれはかのモータウンという、飛ぶ鳥を落とす勢いで売りまくったレーベルをコケにした映画だった。あのころの誰かさんはどっかでドキリとしているはずだ。
正しく言うとこの映画は、60年代後半における黒人ミュージシャンの置かれた姿をよく現した映画なのだった。それはこういうことだ。
そのころ黒人が作った音楽はことごとくソフトに歌い直されて白人が奪っていった。黒人の持つパッションはまだ白人の日常には入りきれなかったのだ。だから売れまくったのは白人のバージョンである。今でこそぼくらはそういう曲をたくさん知っている。その頃はそんなことを知る由もない白人の若者がそんなレコードを嬉々として買ったわけだ。
そして奪われた側の彼らはひとつのレーベルを作った。それがモータウンレコードである。黒人が経営し黒人が作り黒人が歌う、そんな画期的なレーベルだった。基本的な社会状況は変わらないがひとつの風穴をこのレーベルはあけたのだった。そして爆発的に人気を獲得したのがあのダイアナロス&シュープリームスなのだ。
しかし白人の支配する社会で売り出すということは自分たちの生き様を変えるということでもある。そして、音楽性も。それが良いとか悪いとかは関係なく彼らは変わっていく。そして黒人の造った会社であるモータウンのやり方は、彼らが白人にさせられたことと同じことを繰り返しただけなのだ。誰かから曲を奪い、ソフィストケイトされた歌が躍るためだけに流される。
その先頭に立ったのがシュープリームスでありジャクソンファイブ達だった。何回も言うがこれでよかったのだろうか、よかったんだろうな。所詮ショービジネスはこうなんだろうな。
映画ではそのころのエピソードがごったまぜにされてひとつの「真実」を語っている。まさにこのとおりの世界だったんだろう。もちろん映画だから、そこら辺は面白く時には悲しく歌い上げられている。
ひとつの例としてはやはりシュープリームスの物語をあげなければならない。ダイアナロスがリードをとったことではじき出されたフローレンスはのちに自殺同様にして亡くなるのだが、映画ではさすがにそうは描いていない。
シュープリームス(これがドリームガールズ)のダイアナロス(ビヨンセが扮している)は心優しい人間として描かれ、フローレンス(ジェニファー・ハドソンが扮する)は立ち直ってカムバックするということになっている。
ぼくはこの描き方の中で思わず感動した。ああこれは、今は亡きフローレンスに捧げる映画ではないか、と。彼女に目いっぱいの賛辞を捧げているように思える。なぜならば映画の中の彼女の歌はどう見てもアリサ・フランクリンを彷彿とさせる歌い方をしているのだから。(アリサはソウルミュージックの女王だ。)
シュープリームスが彼女のリードであったならあれほど売れることはなかっただろう。が、歴史に残る偉大なガールズグループになったかもしれない。そう思う。
あの当時を知っている人は間違いなくこの映画にちりばめられたエピソードを、あっあの事だと気付くように作られている。そしてぼくが気付くほどだから当の「彼ら」はもっとたくさんの暗号をあの映画に見るのだろう、と思う。そして、思い出し、笑い、悲しむことだろう。
ただモータウンの社長(ベリー・ゴーディ・ジュニア)だけは容赦なくただの野心家として描かれているところが面白い。これで溜飲を下げる者も大笑いする者もたくさんいるということだ。
またマニアには大ウケの映画ということでもある。

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