この本は、歴史という学問における「定説」「常識」というものがいかに根拠の薄いものかということを教えてくれる。
歴史を語るということは一筋縄ではない。なぜなら歴史とは一人に一つの歴史観があると言ってもいいほどのものだ。だから当然ある国によって、ある民族によってそれぞれの歴史というものが存在してしまうのだ。
それでもやはり歴史は、ああでもありこうでもあると言っていたのでは埒があかないもの、でもあるわけだ。やはりそこには最低限の「ひとつの歴史」が望まれているのではある。
話をもどすと、その歴史を語るのにその時代の定説らしきものがあり、その線に沿って歴史は語られるのだがその根拠とははなはだ希薄なものであると思う。簡単に言えば、人は何となく「そんなふうに思っている」というものが、その国その時代の歴史のあり方なのだ。そしてその根拠を探ってみると誰か「偉い人」がそう言ったなんてことだったりするのである。
で、おなじみ梅原猛の『水底の歌』−柿本人麿論である。
こいつもスゴかった。今までの人麿の姿ががらりと変わってしまう。
というよりもぼくは人麿という人などからっきし知らなかったから、今まで知っていた人はその人麿観ががらりと変わってしまう、というべきかもしれない。しかし、もう梅原の人麿論も相当メジャーになっているから今更と言われるかもしれないのだけど。
つまりぼくにとっては人麿云々よりは、今までの「定説」のいい加減さに驚いたのである。梅原に言わせると天才詩人・斉藤茂吉も権威ある国学者・賀茂真淵も木っ端みじんである。
彼らの論理の乏しさに比べると梅原猛の論理の明晰なこと、このうえない。
柿本人麿という人については言い伝えがほとんどなく残っているのは「歌」だけときている。それでいて当代きっての歌人といわれ、たくさんの歌をつくり宮廷に仕えていたがその消息はいっさい無し。
とにかく謎の人物なのだ。
それでなのである。だから誰もが彼の伝を「創り上げる」ことができてしまうのである。
するとある意味何でもありだからこういう事になってくる。つまり大きい声で唱えるか権威をつけて唱える、すると通ってしまうというのが日本人の常。なんか酒の席での議論か国会討論みたいだが、実際わが国の討論とはそういうものなのだった。
そうやって人麿の「定説」が出来上がってしまったのだが、その定説の出どころはといえばいつだって茂吉か真淵なのだ。数ある学者もこの二人には逆らえないということらしい。この本はその定説を順次に突き崩していくのである。
その批判のための文献の多さと論理のしつこさで上下巻の分厚い文庫になってしまった。
しかしその残された「歌」だけからの仮説とその証明がとてつもなく面白いのでつい読んでしまう。
そして人麿は島に流されて刑死したと結論づける。この説は未だに誰も言わなかったことだ。つまり途方もない論なのである。
彼のいつもの言葉「すべてを説明できる仮説が真実なのだ」という強引とも思える言葉は、読み終わってはたして説得力を持っただろうか。
ぼくにとっては「面白ければ」いいのだ。
しかし、人麿の歌ってそんなにスバラシイのかい?

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