普段からちょっとしたハイキング用の靴を履いている。
ぼくはまいにち自転車やバイクに乗っているので、靴底のやわな靴はすぐに壊れてしまうのだ。それになんにしてもステップに安定して足を乗せるには底が柔らかくてはダメだ。で、そういう靴は頑丈に出来ているから長く履くことが出来るということにもなる。
その、もう履きつづけてかれこれ6、7年にもなる靴(ザンバラン製)が壊れた。うちに帰って玄関で靴を脱ごうとしたら何か底に黒いものが張りついている。ガムテープでもくっついたかと引っ張ると、なんと靴の裏がべろんとはがれてはみ出ているんでした。よく働いてくれたが突然崩れた。
以前登山用の靴というものは皮と糸で作られていたから壊れるときも徐々に壊れた。こわれる過程が目に見えていた。しかし、もうそんな時代は終わり、接着剤で部品をくっつける時代になって靴は突如こわれる物となったのだ。以前書いたオートバイのブーツもそうだった。
それでさっそく新しい靴を買わなければならなくなってカラファテに行きバーゲンの残り物を物色してみた。ちょうど良い感じの靴がずいぶん余っていたので4足ばかり試着をしてみて、気になることがあった。
それは、いやに大きい踵部分だ。踵の面積が異様にひろいのだ。
以前から少し気になっていたことだけど、ついに登山用にまで来たかと思った。
街歩き用はかなりそういう形になりつつあった。それはコンクリートの平らな地面しか歩かないことからどうも踵を安定させるためにその部分を広くしたらしい。
ぼくはこの傾向についてはあまり評価をしていない。
確かに最近の人びとには足首を安定させるバランスが失われてきている傾向にあるが、だからといってその足首を靴に頼って安定させる(真直ぐ立てる)ようにすればいいのだろうか。ぼくが評価しないというのは、かえってバランスをとる能力が失われると思っているからだ。
足首(かかと)を真直ぐに保つ力をつけるには不整地を歩くほうが理にかなっていると思う。だから極端に言えば安定したアヒルの足のような靴を履くよりはよほどハイヒールを着けたほうが良いとさえ思っている。
昨今よく見られる足首がひしゃげたような変形症状は、平らな道ばかりを歩いていることに加えて多くの靴が踵を広くしたことに原因のひとつがあると思う。あまりにも靴が足を包みすぎるのだ。
そのうえに硬い道路からの衝撃を吸収しようと靴の踵部分を柔らかくしすぎたためにかえって何が「安定」なのかを足が忘れてしまったような感がある。
基本は裸足なのだ。そして裸足の足は3点で立つことなのだ。母指丘(親指の付け根)と小指丘(小指の付け根)と踵の3点支持なのだ。踵は点で支えているのだ。
なぜかというと踵は軸である。軸は地面が傾いても真直ぐ立てなければならない。これを面で支えると地面の傾きに応じて踵も傾いてしまう。
例えば一本の棒はどんな凸凹の地面でも立つが、そこに平らな板を打ち付けてしまえば真直ぐには立たない。その地面の傾きに応じて軸は傾いてしまう。これが物理的な結果だ。
そして面で支えると自由度が少なくなるのも難だ。例えばコーナーを走って回る場合でも踵の軸は傾くのだが、点で支える踵は自由に角度を変えて傾くからスムーズに回れるわけだ。それを幅の広い踵の靴を履くと踵は地面に対して真直ぐ立とうとするので足首は外側に曲がることになる。体軸の力点が踵より外側に出てしまうので、かえって捻挫をしやすいことになってしまう。
要するに踵は自由に傾くようになっていなければならないのだ。
それを安定させるのは前方の母指丘と小指丘の2点である。これはスプリングのようにサスペンションの役目をして瞬時に形を変えて踵の軸がブレるのを回避しているのである。これが自由に「立つ」ことの原理だ。
だから靴の踵は「狭く」なければならない。これがぼくの考えだ。
この本来点で立つべき不安定(つまり自由ということ)な踵を面にして「安定」させてしまうことで、だんだん重心は踵にかかり腰が落ちた姿勢で立つようになってしまったのが、昨今の人びとの姿ではないのかと思う。
絶対的な事実として、楽をし便利になればその能力は落ちるという法則は言うまでもなくどの能力においてもあてはまるということだ。楽をすれば人間の肉体は時代とともに落ち込んでいくということを忘れてはいけない。
だからもしきちんと立ちたいのであれば「立つ」ための能力を退行させてはいけない、と思う。

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