料理本は思想書である。
なんてね。ま、それは言い過ぎだけど、少なくともその人の考えの筋道のつけ方、その人の生活の匂い、その人の性格の断面などはよくわかる。
要するに食い物のことになると人間てのはなかなかウソはつけないもんで、つい日ごろ隠したい事までもが出てしまうんだな。だから食い物については人は正直である、とも言える。
食い方ひとつにしても、見ているとその人の日常生活が如実に現れているというものだ。食い方はその人の生活作法全般の反映みたいなもので、観察しているとなるほどと思わせるものがある。
しかし、あまりこんな事をしていては嫌われること必定である。食い方で他人を判断されちゃかなわない、と。それもそうだ。
しかし、だから昔の人は人前で食う姿を見られるのを嫌ったし、恥ずかしがった。それは食うということの中にある、まるで裸で人前に出ているような要素がそうさせているのだ。食う事は一種の秘め事でもあったわけだ。
昨今はもうそんなことはないし、それはそれでいいことだと思う。自分の考えを人前で開陳することがいいことであると同じように。
話を元にもどせば、だから料理についてあれこれ言うことも同じように自分の裸をさらしているようなものなのだ。政治について語ることは口が重い人でも食い物についてはよく喋る。あなたの思想はと聞かれて口ごもる人でも料理については冗舌になるものだ。
だからその人を知りたければ食い物の話をするに限る、ということにもなる。
もひとつ、料理については100人が100人一家言を持っているということもある。そして
これがまた、なかなか頑固なのである。人は料理や食い物についてはそう簡単には引き下がらないものだ。「いやいや、俺はそう思わん」とか「あれだけは食えないしろもんだ」とかけっこう大胆な発言が飛び交ったりする。
つまりは、料理本を書いている人は自分の思想を語っているに等しいと、そういう意味で、料理本は思想本なのだ。
そう思ってぼくは料理本を読むときもある。

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