印象派というのはいったい何か。
あのマネにはじまるとも言われる印象派だ。
しかしあれはいったいなんだったのか?日本人は総じてあの辺の絵が好きらしく、展覧会はひっきりなしに、どこかでやってる。
ぼくとしては物や風景をわざわざ「印象」で解釈してくれなくても、どのみちわれわれは絵画を印象で見ているのだ、と思うわけだ。
ほとんどの人は、例えばセザンヌの数あるセントビクトワール山の風景画をひとつひとつ識別している人は居ないと思う。彼はその風景をたくさん描いているけれどもどれを見ても多分同じように見えるだろうと思う。モネの睡蓮の風景もそうだ。どの睡蓮がどれと違うかなんて思って見ているわけじゃない。
要するにほとんどの人は「印象派の絵」を単なる印象でしか見ていないということになる。だからみんな同じ印象をぼくらに喚起するだけだ。
描いているほうにとっては心外なことで、それぞれはまったく違う思いで描かれているはずなのだが。
風景を印象として画布に定着するという暴挙に出た彼らの試みは、見ている者が印象としてしか絵を見てくれないという結果を生んでしまったわけだ。皮肉なものだ。
そしてまた、同じ黒にもいろんな色がある、なんてのもある。
同じように見える色の中にたくさんの色を感じろと、何かそんなことをしつこく言われた覚えがある。
どうもこれはオカシイ。
たくさんの色を見るがそれは個人的なものだ。だからそれを実際にカンバスに塗りたくってしまっては個人の見方を押し付けることになるのだ。(それはそれで良いのだが。)
自ずから見える色とわざわざ取って着けたような色とは違う。
例えば「写実派」のクールベの絵と、印象派のモネの絵を比べて欲しい。
どっちに「色」を感じますか?色とりどり風なモネですか?何となく暗い絵のクールベですか?
「見る側の印象派」の人はクールベの絵に多彩な色を見出すでしょう。ひるがえってモネの絵はそこにある色以上には色を感じにくい、と言うことがある。すでに彼が風景を解説してしまっているのだから。
さあ、どうでしょうか。印象派の絵はなにか「解説本」を見せられている気がしませんか?風景はこう見えるのですよ、と。
だから、どうも堅苦しいのですね。印象派というのは。見る側に自由を許さないというか。
その辺をどうも「印象派」の人たちは勘違いしているようだ。はっきり言って色使いがやかまし過ぎはしないか?あ、いや、解説者は時として喋りすぎるというのは常のことかもしれない。
色にこだわる見返りに光線を無視してしまったのが絵画としては致命的だ。
もっと正直に色をつければいいと思う。赤は赤、青は青と。見るときの光線や明るさでその色はいかようにも変わるのだから。同じような色の中にいろんな色を見るのは、「見る側」もそうであって「描く側」だけではないのだから。
彼らがひとつの色の中にたくさんの色を見るように、絵の鑑賞者も同じようにひとつの色を単純には見ていないのだ。プッサンの色にも無限の色使いを感じ取れるように。
しかし、こんな事とその絵が好き、嫌いということはまた別な位相にある。
本来教会の壁画として描かれたものが、今の住宅の壁にかけて「良い絵」となるかは疑問だし、ぼくにしたって生活の場面で飾る絵としては印象派以降の絵に軍配が上がるというものだ。
だってキレイだもん。

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