思い入れさえあれば「名曲」は出来る。思い込みと言っても良い。
それぞれがまったく違う曲や、歌手に思い入れをして、それが一番素敵な曲だと思っている。「いやぁ、この曲は名曲だぁな、いやまったく、すごいったらないなもぅ」なんて言っているんである。
だからどんな「下手な」歌手でも「上手い」歌手でもちゃんと支持者がいるのだ。ことポピュラーミュージック(流行り歌)に関して言えば、そもそも上手いか下手かは問題じゃない。
それでもヒイキは必ずといって良いくらいに「彼(彼女)は歌が上手い」と言ってしまう。それは、それほど「上手く」自分の心を惹きつけた、という意味に過ぎないのだが・・。
だから各人各様の「名曲」が世の中にはワンサとあるわけなのだった。
一旦思い入れをしてしまえばこっちのもので、その歌い手またはその類の歌は限りなく名曲に近づくという寸法だ。
と振っておいて書けば、ぼくがソウルミュージックをどんなに素晴らしいモノかと言っても褒めすぎはないだろう。
しかし、それでもやはり「良い音楽」というものは、ある。
流行り歌の世界では音程を外してしまったとか、途中で声が裏返ってしまったとか、リズムを飛ばしてしまったなんてことは関係ない。クラシック音楽では許されないことだ。聴き苦しくない程度に個性が出ていればよろしい。
あ、ここで個性を出すなんて言ったので説明すると、個性は「ある」もので「出す」ものじゃないってこと。その人の個性は自然と出てくるので、ことさら出そうとするとウソになる。歌についていえばとにかく正直に声を出し、歌詞をはっきりとごまかさずに発音することだ。それで個性は出る。無理やり作ろうとすれば個性ではなく虚飾になってしまうのだ。
これを勘違いしているミュージシャンはけっこう多くて、聴き苦しい。歌詞をわざわざ聴きずらい発音でうたってみたり、いやに巻き舌ばかり目立ったり、鼻から声を出せば上手そうに聞こえるだとか、甘えた声をくりかえぜば艶っぽくなるカモとか、何を勘違いしてるんだこの人は、といった歌手は多い。
またしても説明だが、この勘違い歌手が好きという御仁もいる。それはそれでいい。が、好きというのと、良い歌は決して同じではないのだ、金輪際。
山本リンダがどんなに売れようとまた好きであろうと、あの歌は当時の世相を現わす「現象」に過ぎなかったのと同じである。
歌は正直に歌え、と言った。
次は、明らかに不釣合いな歌は良い歌ではない、という事。
歌というものは、とりわけ流行り歌というのはその時代に歌ったから良い歌なのだ、という事だ。名曲はいつになっても良い歌だ、というのはその意味では間違っている。音楽はダイナミックなものだ。いつも動いている。
例えると、『よいと巻けの歌』というのがあった。今の美輪明宏が当時の丸山明宏で歌った曲だ。
この曲は良い曲だ。あの時の丸山がああした歌い方で歌った、良い歌だ。
しかし、今美輪明宏が歌うと何ともいやなものだ。もう彼の立場がその曲とは不似合いになってしまったからだ。ウソになってしまう。この歌は当時の音源で聴いてこそ良い曲なのだ。今彼が歌うとこれは何とも薄気味悪いシロモノになってしまうだけだ。懐かしむためならば一人でカラオケして欲しいものだ。
総じて、生き残った歌手がむかしの歌を歌うのはもうやめて欲しいと思う。流行り歌というのは時代にそってこそ意味がある。聴くならその時彼が時代の中でもがいていた時の声で聴きたい。それでこそ良い曲が良い曲でありつづける証だ。
メロディラインが美しいという(だけの)歌もある。これもかなり重要で、それだけで「名曲」になったりするものだ。
カーペンターズなんかはその最たるもので、当時は、何かい?兄妹で恋歌かよ!と気色悪いだけだったが、その曲調が良いためにかえって後になって誰が歌っても「良い曲だなあ」と思うようになった。
こういった歌は流行り歌を脱して無味乾燥のクラシックとなっていくんだろう。それはそれで良しとしなければいけない。
歌は正直に歌え、と言ったが、中には無理矢理声を造って何かを届けようとするのも1つのやり方だ。しかしそこには聴くものに届けようとする「何か」がないといけない。
これで頂点に達したものがオペラだろう。これはポピュラー音楽ではないけれど、あれほど声を造って個の特性を消滅させれば、見事なものだ。
クワタケースケも作り声だ。発音も定かでない。ぼくにはそれだけで興味を失うのに十分だ。この方法は危うい歌作りであり、賭けの様なものになってしまうだろう。
歌は正直に歌え、しかし時にはその限りでないと思える歌もある、と言った。
また、流行歌から時代を取り去ったら、それはただの音の組み合わせだ。しかし、その音の組み合わせが絶妙な曲というのもある、とも言った。
今回はグッと引きつけて、どうしてソウルミュージックなのか、という事について。
一に声だ。
あのくぐもった黒人特有の声がいい。
二にコール・アンド・レスポンスといわれる、繰り返しの歌唱法がいい。
歌の後半をバックが繰り返して追っかける。これが何とも言えなくいい。
三にコブシである。
ソウルの良さを決定づけるのがこのコブシで、長音の中にいくつかの音の振れを出すのだが、これは外人には絶対マネのできない彼ら固有のものだ。聴いていて見事と言うしかない。
そしてサム・クックだが、彼にはそのどれもがないじゃないか、と思われるかもしれない。ところが彼はそれを抑えているんですね。
彼はメジャーを目指していたので、余り「黒人らしさ」を出さないで勝負してきた。それは時代、と言うほかないが、それによってかえって彼の魅力が出たと言ってもいい。すべての芸術には表現の不自由さが宝になるときがある。
そんな中にもよっく聴くとサムの「ソウル」が垣間見えるってところが、彼の歌の深いところだと思う。
因みに、彼がハーレムで歌った、つまり黒人観客の中での小ライブを聴くと、うっぷんを晴らすかのようにシャウトしていてまるで別人のようだ。
思いつきで書いてしまって、それでも「良い音楽」というものはある、という事がどっかに行ってしまった。ソウルミュージックの素晴らしさを書くこともやっていない。
そのうちに。

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