きっかけは、連合赤軍だった。
2月の厳冬期に彼らが選んだ逃走路、だ。聞きしに勝る「あの裏妙義」を、雪の厳冬期に普段着で縦走した、と言う。
気になる。
その、聞きしに勝ると言うのはどんな所なのか、一度行ってみたい。彼らが踏んだ道を辿ってみたい、という想いだった。それが裏妙義に行った理由のひとつだ。
その結果は、難路だった。
全く違う意味で、難路だった。
7月17日(日)の朝、東京駅7時48分発の新幹線で高崎へ、そこで信越線に乗り換えて終点横川駅に着いた。
この山系は岩だらけだと聞いているので荷物は少なく、小さくまとめて岩壁を登りやすいようにザックを設えた。
今日のルートは御岳経由で「丁須の頭」まで。下りは国民宿舎「裏妙義」まで沢を下る。
そして明日は三方境から丁須の頭を越えて横川駅に戻る、8の字型の縦走往復だ。
さて、弁財天のまつられてある登山口を上がると、のっけから濡れた岩に鎖がぶら下がっている。けっこうな角度の岩でこれから何十回となく現れる鎖場の中でも、難度は高い。この鎖場をクリアできない人は登るべからず、と暗黙のうちに語っている。
しかしそのワクワクした気分は20分と続かなかった。
落ち葉をかき分けて登っていると足がムズイ。なーにかと思ったらヒルがくっついて膨らんでいる。背筋がぞっとした。引っ付いてしまうともう素手では取れない。どんな構造になっているのか知らないが強力である。だからライターの火を近づけて自ら落ちるのを待つ。この短い時間が妙に長い。体をくねって熱がっている姿が、気味悪い。
しまった、と思った。登山道にヒルがいるとは思わなかったので、7分丈のズボンをはいて来ちまったのだ。慌ててザックから長袖シャツと、長い靴下と軍手を出して着替えた。
暑いので腕をまくって再出発したが、すぐに腕に一匹くっついてきた。げげっ、またかよ。
いやいや、もう本当はヒルに取り巻かれているのだ。そう思ったとたん寒気が走った。軍手の上にポトン、靴下の上にニョロリ。なんなんだ、こいつらどっから湧いて来るんだ。こうなると体に触る木の葉をよけ、足元の草をよけ、次第に速足になってくる。ゆっくり歩くと一気に襲われるような気がする。
絶えず体回りを見ながら、付いたらすぐに払い落とす、引っ付く前に軍手の指でつまんで捨てる。もう山の景色なんかどうでもいい、早く開けた所に出たい。で、案の定オーバーペースで、くらっと来た。凍らせてきたペットボトルを首に当てて冷やし、しばしの休息。
とにかく明るい尾根に出たい。日がさせば気分もずっと変わる。とにかく檜の林の中は暗いのだった。見えない敵に囲まれているって感じだ。
で、やっとの思いで明るい尾根に着いた。しかし、そこは痩せた尾根で潅木が膝を叩く。明るいだけで何も変わっちゃいないのだ。汗が背筋を流れる感触や首にかかる木の葉がすべてヒルの存在を思わせる。こんな山早く降りたい!(今あがったばかりだと言うのに)。まだ一時間と歩いていないのに、もう泣きが入った。御岳山の手前で見晴らしのいい岩づたいに出た。ここには大きな岩洞があり人が使った後がある、鎖のついた岩のトラバースを越えて乾いた岩の上でホッと息をついた。乾いた所に初めて出たわけだ。裸になってかすかな風を楽しんだ。この稜線は1メートルくらいの幅の狭いルートで、下を見て歩いているとけっこう怖い。左が切り立った崖になっていて木の葉の落ちた季節だったらスリリングな山行になる。ま、今日だって違う意味でスリリングではあるが・・。
岩壁についている鎖はしっかりしていて問題は無いが時としてかなり足場の悪いところもあるにはある。下を見ずに登れば問題は無いのだが。
行く手遥か、岩山のてっぺんにTの字型をした丁須岩が小さく見える。あそこまで行くのだと思うとうんざりだが、見えている所というものは案外と遠くはないものだ。そう言い聞かせて尾根を歩く。ここら辺になると藪をかき分けてもヒルが付いてこない事に気付いた。やっぱお日様はありがたいなあ。
丁須の頭はこの裏妙義山系の「顔」だ。たぶん人がいるだろうなあ、そしたら背中を見てもらってヒルが付いていたら取ってもらおう。見えない背中がずっと気になっていたんだ。で、一目散に丁須の頭へ。ここら辺は鎖場ばかりだが、人気の場所とあって無くてもいいような所にも安全第1で鎖が着いているのだった。ぴょんと飛び出た丁須岩は乾いた岩ばかりのところにあって、一気に気が緩んだが、人っ子一人いなかった。
がっかり。今まで緊張の連続(交感神経)で張り詰めていたゆり戻しなのか、とたんに腹が減りウンコがしたくなった(副交感神経)。考えてみればこれは自律神経がバランスを取ろうとしているんだと納得したりして。
ぼくはさっそく丁須岩の「肩」に寝転んで一服して、やっと休んだ気分になった。岩の割れ目からニッコウキスゲが顔を出していた。
それにしてもすごい眺めだ。周りのぐるりは切り立った山塊で、ああこれが妙義なんだと思った。振り返ると今越えてきた御岳がきれいなピラミッド型をしていて意外な風景に見えたものだ。
にぎりめしを食い終わって、さあと岩を降りたらまたどよーんとした気分になった。何故と言うに、これからは国民宿舎まで沢の中を下りることになっているのだ。沢といえばヒルの棲み家ではないのか?ああイヤだ。
この沢の中は大きい岩がゴロゴロしていて、しかもすべての岩に苔が張り付いているという、全くもって歩きにくい所で、下手に急ぐと足をくじきそうだ。ここはストックの石突きが本当に頼りになる所なのだ。して、考えたほど岩というものにはヒルは付いていないもので、やつらはやっぱり木の枝に付いているらしいのだった。時間の余裕もあるので広い沢の中で水を浴び、残ったコーヒーを飲み干した。着ている物着けている物はすべて汗を吸い取って体にくっ付いている、それほど風のない空気の動かないところだった。
ふと連合赤軍の面々がこの沢を登ってきたことを思い出した。そういえば彼らの足跡を踏むのが今回のひとつの目的だったことをすっかり忘れていた。重い機材や銃弾を持ってよくこんな所を上がってきたものだとつくづく考えた。
国民宿舎に続く階段状の登山道に出くわしてやっと「ヒルの森」から解放されたと実感したものだった。かなり大きなアオダイショウが足元に現れたが何の感動もなかった。ヒルの気味悪さに比べればヘビはそれほど嫌なものではなかった。まあ、これがマムシだったら別だが。それにしてもこの森は手足のないニョロッとしたやつばっかり現れるなあ、全く!
国民宿舎に着いたとたんに雷と大粒の雨が落ちてきた。ああ、森に居なくてよかったと思った。雨と一緒にヒルが落ちてくるなんて考えたら気味悪いもの。
見上げると正面の表妙義のうっそうとした森の中から真っ白いもやが一斉に上がってきた。暖まった森に冷たい雨が落ちて湯気となって舞い上がってきたのだ。
それから数時間、かなり強い雨が降り続き、ぼくは吹っ切れた思いがした。これで明日の山行は中止だ。もうこんな森に入りたくない。早く帰ろうっと。
18日(月)
朝は誰よりも遅く起きた。
食事ができましたと言うアナウンスで起きて食堂に行くと、大方の客はもう席を埋めていた。早いなあ。いや、そんなことより雨はきれいに上がって空はカーンと晴れているじゃないの。山を下りるつもりでいたがこんな天気を目の前にして、おめおめと帰るのはどうも潔くない。15分ばかしウジウジとしてとにかく荷をまとめて外に出た。
不思議なもんだ。ザックを背負って宿舎を出たとたんに、気分は変わった。なーんか、今日はヒルなんかいないように思えてきた。昨日のことはすっかり過去の事件になりつつあった。今日のルートは昨日とは違うもんね、沢じゃないし。と、合羽をつけずに登山道に入ったもんだ。
そして5分後、ふいと見た腕に、やっぱりいたんである。ヤツが。
いっぺんに気分は急降下し、こんな広い登山道にもか?と落ち込んでしまった。とにかく慌てて合羽を出し急いで着込んだ。もうイヤだ、今日は完全防備で歩くんだと合羽の裾をテープで目張りしてフードをかぶり顔だけ出して登った。露出しているのは顔だけだ。
日の入らない林内で、天気のわりには思ったほど暑くない、と思うもつかの間、当然ながらこんないい天気に空気を閉じ込めて歩いていれば熱がこもってくるのは時間の問題なのだった。またたく間に体は熱くなり苦しくなってきた。時間の余裕はあるのでできるだけゆっくりと歩いたが、気付くと速足になっている。
もう限界だ、しかも潅木はなく広いヒノキ林に入っているので合羽を脱いだ。ああ涼しい、こんなに気持ちいい空気だったのかと思った。ぼくは脱いだ合羽をザックにくくりつけて、びっしょりとかいた汗のシャツに風を通した。
踊り場のような開けたところで小休止をしてザックを下ろし、シャツをズボンから引き抜いた。ああ気持ちいい!
シャツをパタパタして腹に目をやった時の驚き!もう背筋がぞわぁ〜〜っとしたね。
ズボンの境い目ん所に黒いのが3つも付いてるのだ。な、何なんだ、こいつらは!
ジッポのライターで一匹目を落とし、熱くなった風防を残りのやつらにくっ付けて落とした。がもうぼくの頭は尋常じゃない。見えない所にいっぱい入ってんじゃなかろうかと、パンツの中やシャツの裏側をこわごわ覗いたもの。見るとザックにも付いていたし、一体どこから落ちて来るんだろう?
このかんは藪に触ることなく歩いてきたのだ。もう空間を飛んで体に付いてくるとしか思えない。ぼくは、それからはどんなに暑かろうともう合羽を脱ぐのはやめようと思った。
ゆっくりと三方境まで登った。さすがにここは広い。裏妙義のクロスロードだ。ここから左手にいくと谷急山、右に行くと裏妙義のハイライトの縦走コースで、昨日登った丁須の頭経由で横川駅に下山できる。
今日はもう谷急山に行く気を失ってしまった。さあ、計画通り縦走して横川駅に行くか、このまま北の入山橋に下山してながーい舗装道を横川まで歩くか。時間は同じ。ヒルさえいなければ迷わず縦走だがなあ。と、地図を眺めた。すると、あらら縦走コースのほうには「ヒルに注意」って書いてあるじゃんか!今までちっとも気付かなかったよ。なんだい、もう迷わず下山である。
あとは一目散に降りていった。もうこの山から脱出するんだ。
麓の工事現場に着いたらまだ12時だった。さっそくすべてを脱いで裸になった。気持ちいい!もう、すごい解放感だ。さすがに合羽の中には入ってこなかったらしい。パンツの後ろの境目に吸いあとがあったがこいつはいつ落ちたんだろう。知らなければどうってことはないのだった。
それから、延々と一時間カンカン照りの舗装道を歩いたが、普段だったら絶対いやな舗装道が何かとても楽しく歩けたのだった。まる2日ぼくはヒルに怯えて歩いていたわけだ。これが7月の裏妙義の自然なのだった。それが嫌なら山に入るべきではないのだ。確かにここまで山の中では誰一人として会わなかった。ついでに言うと下山してからもこの暑い舗装道を歩いている人は一人もいなかったのでした。
(おまけ)
ヒルの森に入ろうと思う人に忠告。
絶対必要なものは、長袖シャツ長ズボンである。そして足元にはスパッツを履いた方が良い。無ければテープで目張りをする。ヒルは足元から入ってくる。手袋はしゃれたものではなく軍手だ。つかみ易いから。そしてフードの付いたゴアテックスの合羽。すべての物は明るい色のほうが良い、黒っぽいヒルが付くとすぐ分かる。
ヒルは熱くなった体とザックの間に好んで入ってくるようだ。
ヒルよけのクスリというものは知らないが、付いたらライターの火で落とさないと摘んでも取れない。無理に引き剥がすと血が止まらないことがある。ジッポは風防が熱くなるのでこれで落とすことが出来るので便利。オイルを十分に入れとくことだ。

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