オルタナティヴロックバンドVery Apeのシンガー
「Ape」のブログでございます。
基本的には過去のことについて語ります。
2006/6/16
さてさて、今回は前回無駄に引っ張ってしまった
「Y」という人物について語らなきゃいけないんですね。
ちっ…めんどくせぇなぁ…。
どうせ書いたって誰も見てねーだろ。こんな腐れブログよぉ…。
さ、ということで、気を取り直して今回も張り切って行きましょう!
まず、Y氏との出会いはメンバー募集、略してメン募であった。
一応知らない人のために書くと、バンドを組むには方法が大体二つあるのだ。
一つは友達だの、普段から仲の良い者同士が集まって、
それぞれパートを適当に振り分けて組むパターン。
そしてもう一つは、所謂そのメン募なのだが、これが結構説明がややこしい。
そのメン募にもまた幾つかパターンがあって、
まず一つが音楽雑誌というか、バンド雑誌というか、
例えば「BANDやろうぜ!!」略して「バンやろ」
などの雑誌のメン募コーナーに自ら投稿して、
自分が募集しているパート、条件、などをまるで求人誌のように掲載してもらって、
それで自分と趣味趣向や条件が合った人間からの便りや、電話を待つというのが一つ。
(今思えばこれ個人情報丸出しじゃないすか…。
ひょっとして今はもうこういうの無いのかな?)
で、二つ目が近所の楽器屋、ライヴハウス、バンドの練習をするスタジオ等に、
自分で書いたメン募の紙を直接自分で持って行き、
所定の掲示板等に貼って欲しいと店員にお願いする方法。
そして、最近ではインターネット上でもそういったメン募のサイト等があったりするのだ。
(ちなみにVery Apeはこの方法で運命的な出会いをしました。本当に運命だと思います。)
まぁ、最後の方法はちょっとした出会い系感覚ですよね(笑)
要はメン募っていうのは、さっき言った一つ目の「友達と組むバンド」とは違って、
まったく知らない人と、バンドを組むためだけに出会えるシステムなのだ。
そのため、メン募の紙を貼れば、必ずしも所謂“当たり”の人に出会えるとも限らないし、
むしろ人間的に全く合わない人が来る可能性の方が異常に高かったりする。
それは比率的にバンドやっている人間でダメなヤツが多いからなのかなんなのかは分からない。
そして、これから話すY氏がダメなヤツだったのか、そうでは無かったのか、
はたまた天才だったのか、当たりだったのか、はずれだったのか、
僕は未だに分からないままなのである……。
これはまだ前回書いた初ライヴ以前の話。
僕が初めてバンドという物を組もうと思い立った頃の話である。
といっても、何故か既にテリーさんとは一緒にやることになっていたんですけどね。
で、まぁ取り合えずこれでベースとギターはいる。
じゃあ後はヴォーカルとドラムとキーボードを募集するだけだなってんで、
早速近所の楽器屋にメン募を出しに行ったのだ。
(ちなみに当時の僕等は上記の5人編成がバンドとして当たり前の形だと思い込んでいた。)
メン募を出し、何日かするとヴォーカル志望だという男から電話がかかって来た。
(今思えば昔のこの家電にかけるっていうシステムも笑えるな。
実家暮らしだと最初親が取って「○○君いますか?」とか言われちゃってね。
しかもライヴハウスとか、イヴェントの出演依頼なんかも実家にかかって来ちゃう訳でしょ?
例えばタトゥーバリバリ入ったライヴハウス店員とかが実家に電話してきて
「○○君いますか?」
とか言って
「はぁ〜い、ちょっと待って下さいね………○○〜!電話よ〜!!」
とかお母さんに大声で呼ばれて
「分かったよ!今いくよ!」
とか言いながら二階からドタドタ降りて来て……)
ヤバい、だいぶ話が逸れましたね……。
で、なんだっけ?
そう、電話がかかって来たんですよ。Y氏から。
それで、じゃあ取り合えず会ってみましょうかってなったんですよ。
Y氏は僕が中学二年生の時にたしか20代後半ぐらいだったから……
えっ!?もう40近いのか!!!?嘘だろ………!!!????
………なんか、超予定外なんですが、書いてる途中で驚愕の事実が発覚してしまい、
僕は頭がおかしくなってしまいそうなので、今日はこの辺で一旦やめときます……。
僕がY氏の年齢を勘違いしているんだろうか…?
テリーさん、これ見たらコメント下さい。
つづく

0
2006/4/26
産まれて初めてライヴをやったのは、埼玉県南浦和にあった今は無きライヴハウス
「ポテトハウス」でした。
そこはGLAYが北海道から上京してきて初めてライヴをやった場所でもあります。
で、肝心のライヴの内容はと言うと、B'zやらZIGGYやらDeep Purpleやら、
マイケルシェンカーやらのコピーで、「アクロバットシスターズ」という名前の一回きりのバンドした。
メンツは僕がベースで、テリーさんがギター、その他テリーさんの友達やメン募で集めた人達で構成されており、
僕は当時中学二年生でした。
バンドは、ライヴに向けて夏休みの期間をフルに活用し、
当時テリーさんが通っていた高校の教室に機材を持ち込んで練習に励んだ。
僕は、常にドキドキしていた。
当時中学生だった僕が高校に忍び込むということも、
バンドで大きい音を出すということも、
普段の生活とはかなりかけ離れていたからだ。
僕は同世代の周りの人間より、なんとなく大人な気分だった。
が、しかし、いざライヴをやってみても、別に大観衆にキャーキャー言われることもなく、
スカウトが来ることもなく、価値観が変わった訳でもなく、
「あぁ、バンドなんてこんなものか。案外地味ね。
やっぱり世の中うまい話は転がってないものなのね〜。」
という感想だけが残り、
その後も僕の日常は、ただ何事もなかったかのようにまた繰り返していくのでした。
でも、人生というのはやはり何事も積み重ねが大事な訳であって、
そんな地味だったコピーバンドでさえも、僕の長いバンド人生の中では大変意味のあるものだったと思うのです。
で、まぁ、これが僕の人生初ライヴについてなんですが、
実は今回のメインテーマはこんなクソつまらない初ライヴについての思い出話などではないのだ!
僕は自分のバンド遍歴を書くにあたって絶対に書かなければならないことがある。
僕とテリーさんの頭の中からは永遠に消えることは無いであろうあの強烈な存在。
当時純粋無垢な少年だった僕にとってはかなり衝撃的だった人物。
ある意味本物のロックスターになるべき素質を持った男だったかも知れない「Y氏」について、
僕は初めて封印を解き、ここに書き記そうと思う。
が、しかし!!
僕は今無性にお腹が痛くなってきたので、その詳細は次回更新時に書こうと思うのであります。
それでは「私のバンド遍歴5」にご期待くださいませ。
あ痛たたたたた…。
マジマジ、なんか右の横っ腹がくぅ〜って、ほら、なんかくぅ〜って、
なんかマラソンの時みたいに痛いんだよね…。
いや、なんか分かんないんだけどさぁ…さっき水飲みすぎたからかなぁ…?
うん、そう。なんかきゅ〜って痛いんだよね…。
ヤバイかなぁ?
ねぇ、これヤバイかなぁ…?
保健室行ったほうがいいかなぁ?
うん、じゃあ俺ちょっと行ってくるわ……。
つづく

0
2006/2/26
ベースを弾いて、華やかなステージでスポットライトを浴びて、
超満員の会場から歓声なんか受けたら最高やん!
なんて思ってしまった中学二年生の僕。
でも、どうしたらそんな風なスターになれる?
あ、まずはベースを弾けるようにならなきゃいかんわ!
ってことで、僕はまず近所で教則本とやらを買ってきて、それに習って練習を始めた。
教則本とは、いわばエレキベースという教科の教科書な訳であって、
当時中学二年生だった僕にとっては教科書なんて物はただの落書き帳な訳であって、
そりゃあ聖徳太子もサングラスをかけるし、
鑑真和上はロン毛になるし、
マッカーサー元帥にいたってはもうページごと破れてしまっている訳ですよ。
それは何故か!?
何故田舎の童貞中学生達はマスカキをするか、
教科書に落書きをするかしか脳が無いのか?
答えは簡単、学校が嫌いだからだ。
じゃあ、何故学校が嫌いか?
授業(教科)に興味が無いからだ。
いや、もっとまともな意見を言えば、
強制的にお勉強をさせられるから嫌いになるのだろう。
仮に、中学生の頃の僕がふと
「米村でんじろう先生のようになりたい」
なんて夢を抱いたら、きっと科学の教科書に落書きなんてしないだろうし、
授業も真面目に聞いたかも知れない。
そんな訳で、僕は自ら選んだエレキベースのお勉強に関しては、
もう自分でも驚くぐらい真面目に取り組んだのだ。
もちろん、教則本に落書き一つせずに。
あ、それでもマスカキはしましたけどね…。
で、いざ買った教則本の最初の方のページには
「ベースには主にピック弾きと、指弾きがある」
という風な事が書いてあった。
「なになに?ピック弾きと指弾き…?そんなのピック弾きに決まってんだろ!
昔からパンクスはピック弾きって決まってるんだよ!!」
と僕は憤慨して、持っていた教則本の両端を引っ張り、真っ二つに引き割った。
と、いうのは嘘で、
「ベース上手い人はみんな指弾きなんだよ」
という何の根拠もないテリーさんの一言により、僕は指弾きを選んだのだ。
それからと言うもの、僕は毎日学校から帰ると夢中になってベースの練習をした。
なんか凄い小さな、ラジオかよって勢いのアンプにつないで、
晩ご飯の時間になるまでベンベロベンベロやっていたのだ。
そして、ある程度基礎を覚えてきた頃、
ほいじゃそろそろ曲をコピーしてみようかなと思い、
僕は日本最狂のヤンキーロックバンドBOФWYの
「NO.NEW YORK」を選んだのだ。
しかし、問題なのは、当時僕が別にBOФWYのファンでもなんでもなかったことだ。
じゃあなんでまたBOФWYの曲をコピーをすることになったのかと言うと、
僕は本来なら初めにコピーするなら絶対B'zの曲だというふうに決めていたのだが、
ここでまたもやテリーさんが
「B'zは初心者には難しくて絶対弾けないから、初めはBOФWY辺りの簡単なのからやった方がいいよ」
などと、ぬかしやがったからだ。
僕はそれを聞いて、
「何故自分が氷室だの布袋だのみたいな七福神みたいな奴等の曲をコピーせないかんのだ」
と、思うのと同時に、
「やっぱり明石昌夫氏のベースは初心者には弾けないぐらい難しいのか…」
と、妙に納得したような気分になったし、
ここは一つ仮にもギターの先輩であるテリーさんを立てるという意味も込めて、
当初の予定を変更して、もう本当に思いっきり妥協して、誠に不本意ながら、
僕はBOФWYのミスターダウンピッキングこと松井常末になりきる覚悟を決めたのでありました。
そんな感じで、非常に予定外な感じのBOФWYのコピーであったが、
いざやり出してみるとコレ、楽しくて楽しくてしょうがないのである。
もう“テテテ、、テーン”
とCDと同じサウンズが自分の指先から弾き出されて、
なんとも言えない喜び、興奮、悦楽、などの様々な感情が溢れだしてくるのである。
しかもコピーをしていると、何故かだんだんBOФWYが好きになってくるから不思議だ。
そして、何日か経ち、僕は「NO.NEW YORK」を完全攻略した。
もう嬉しくて嬉しくて、何度も何度もCDに合わせて弾きまくった。
学校から帰ると
“テテテ、、テーン”。
晩ご飯を食べおわると
“テテテ、、テーン”。
座ってやるとできるのに、立ってやると難しいなぁ、なんて言いながら
“テテテ、、テーン”。
しまいには親の前で「ほら、見て見て!」なんて言いながら
“テテテ、、テーン”
なのである。
ベースを始めて、曲が弾けるようになり、僕の中で新しい世界が開けた。
僕はもう、世界中の幸せを独り占めしているような気分だった。
学校の奴等なんかより自分は優れているんだと思った。
みんなはこんな良いものを知らなくて可哀想だと思った。
あぁ、僕は最先端だ!
僕はロックだ!
七福神みたいなヤンキー達に感謝するぜ!
やっぱりこれだったんだ、僕のやりたかったことは、そして進むべき道は!!
あぁ、こうなってくるとライヴがやってみたい!
大観衆の前でライヴがやってみたいっす!!!
そんな感じで、僕は弾ける曲を徐々に増やしていき、
スタジオ、セッション、ライヴ、なんかを意識し始めたのだった。
つづく

0
2005/12/9
中学二年生になり、僕はエレキベースを買った。
ヤマハのミディアムスケールの、ちっこくて茶色いヤツだ。
兄がギターを始めたのだから、普通なら自分もギターを買いそうなところだが、僕は誰に言われるでもなく、自分の意志でベースを買ったのだ。
理由は今でもはっきり憶えいる。
「明石昌夫に憧れていたから」
である。
今「誰?」って思ったでしょう?
はぁ〜、これだから素人は困るんだ…。
僕は昔っから親切で有名な人だから、特別に教えてあげますよ。
明石昌夫とはあのB'zのサポートベーシスト(当時)であり、知る人ぞ知る日本屈指の名アレンジャーなのである。
今「またB'zかよ」って思ったでしょう?
はぁ〜、これだから素人は困るんだ。
彼のアレンジャーとしての仕事ぶりはスゴイんだよ。
というのも、彼が手掛けた作品は万人に受け入れられやすい洗礼されたサウンドであるにもかかわらず、
ロック病という重病を患った僕のような人間のひねくれた耳にさえも、単純に格好いいなぁと思わせる程の魅力があるのだ。
そして、その幅広い層の人間の心を鷲掴みにするアレンジにより、彼が手掛けた作品は見事に大ヒットしているのである。
と、ここで一つ確認しておかなければならない事があるのだが、あなたはB'zのことを一体どれくらい理解しているのでしょうか?
僕みたいなプロに言わせると、B'zの絶頂期はアルバムで言うと「IN THE LIFE」とか「RUN」辺りなのだ。
そして、ギリギリ許せるのは「LOOSE」までで、それ以降は変にロック色とか強くなってしまい、はっきり言ってクソなのである。
鋭い人はここでピンと来るかもしれないが、実は明石昌夫氏はB'zの初期はほぼ全ての楽曲のアレンジを手掛けていたのだが、「LOOSE」発売ちょっと前辺りから微妙に彼のアレンジによる楽曲が減りはじめ、「LOOSE」発売以降はアレンジを一切手掛けていないのである。
そう、僕の崇拝するB'z様でさえ、彼のアレンジの腕が無きゃただのゴミに成り下がってしまうという訳だ。(言い過ぎ)
これで彼の偉大さをお分り頂けただろうか。
これだけではまだ彼のアレンジャーとしての腕がどれだけスゴイのか、いまいち良く分からないという愚鈍なあなたのために、分かりやすく説明しよう。
皆さんご存じのシャムシェード。彼らの出世作といえばやはりあの名曲「1/3の純情な感情」だろう。
な、なんと、あの曲も実は明石昌夫氏がアレンジを手掛けているのだ!
つまり、彼がアレンジを手掛けたあの曲でシャムシェードは一気にお茶の間レベルまで知名度を上げることに成功したのである。
フフフ。驚きのあまり思わずおならが出てしまいましたか?
とにかく彼は凄いんです。
で、これで明石昌夫氏の凄さは皆さんに分かって頂けたと思うのだが、彼がもしただの凄腕アレンジャーなだけだとしたら、僕はきっと彼に憧れることなど無かったでしょう。
というか、実を言うと当時ただの小僧だった僕にとっては、彼の偉大なアレンジャーとしての手腕や、ベースプレイには何の興味もなかったのだ。
つまり、どういう事かと言うと、
産まれて初めて借りたCDは「おどるポンポコリン」、
産まれて初めて買ったCDはサッカー日本代表の応援歌、
という埼玉産まれ埼玉育ちの糞ガキであった僕は、ただただ彼のベースを構えた風貌にやられたのであり、
金髪、髭、サングラス、の三拍子に心を打ち抜かれたのであり、
そのおかげで、僕は産まれて初めて自発的に自分の将来について考え、
「僕もあんな風になりたい」というような憧れを、強く強く抱いたのでありました。
つづく

0
2005/10/25
僕は病気だ。
毎日毎日寝ても覚めてもバンドのことしか考えられないのである。
これはどう考えても病気だろう。
だってそうでしょう。
毎日毎日寝ても覚めてもエロイことしか考えられない奴の事は、誰しもが病気だと思うはず。
僕もそれと全く変わらんよ。
あぁぁぁぁ…そんなエロイ奴と同じ病気にかかってしまうなんて…。
要するに僕はムッツリバンドマンであります。
それで、やはり病気になるにはそれなりの理由、きっかけがある。
もちろん僕が病気にかかったのにも大きなきっかけがある訳で、それは何かというと、
小学生の時に衝撃を受けたあの方達の音楽。
そう。僕をこんなにもロックに夢中にさせ、ムッツリバンドマンにさせた犯人は、紛れもなくB'zである!
あの日本で一番早く、そして世界でも五番目にギブソンと契約するという快挙を成し遂げたTAK MATSUMOTO率いるB'zである。
ここで「はぁ?」とか思った人はまだまだロックを語る資格は無い。
凄いんだよ。B'zは。
まずヴォーカルのイケメンは短パンで超絶シャウトを繰り出すし、
ギターの襟足長い奴はピロピロ速弾きしたり、ギター回しやるし。
それだけでもかなり凄いんだが、ギブソンと契約した時点で襟足とジミーペイジは並んだ訳で、B'zもLED ZEPPELINと並んだことになる。
皆さんも一枚は持ってるでしょう?ZEPPELIN。
要するに、あなたが持っているその「LED ZEPPELIN4」はB'zで言うところの「RISKY」に当たる訳であって、
そうなるとあなたも何気なくB'zの「RISKY」を聞いて「いいわ〜」なんて言っていたということになる。
なぁんだ、あなたもB'zファンなんじゃん!
ということでB'zはとにかく凄いのである。
そんなこんなで僕は、中学生になってもやはりB'zを散々聞き狂っていたのだが、
当時高校生だった兄のTERRI-Jはある日突然、普通の高校生の様に何となくギターを購入した。
(彼は高校生になっても当たり前のようにB'zファンであり、その熱狂ぶりはファンクラブに入会するほどであった)
そもそも僕がB'zにはまっていた事は兄の影響からだったんだが、兄がギターを買ったことで、これまた影響を受け興味を持ち始める。
つづく

0