その少年が、水戸エンジェルスに入団してきたのは小学3年生の後半だった。
目がクリクリとしたかわいい男の子だった。
父親がグランドまで車に乗せて、彼を連れてきた。しかし、その少年は車から降りようとしなかった。
父親から話を聞くと、学校でいじめられているという。学校にも行きたくない・・・ というらしい。学校へ行っても保健室で一日を過ごして帰ってくる・・・ そのような状況だという。
だが、その少年はそこで、すてきな出会いをする。
当時 エンジェルスの低学年担当は、現職の養護学校教諭だったTコーチ。
そのTコーチは、いやがるその少年を抱きかかえるようにして車から無理矢理引きずりおろす。、
毎回そのようなことが続いた。
Tコーチに言わせれば、養護学校ではよくあることだという。
練習が始まれば、Tコーチの独壇場。楽しい・おもしろい練習が続く。「野球が好きになるように。」そこに視点をおいて練習していることがよくわかる。
そして、その少年は、またここで すてきな出会いをする。
よきチームメイトとの出会いである。
結果的には、このチームメイトとともに全国大会に出場し、県ちびっ子野球選手権にも優勝するのである。
そのころの彼は、もう、いじめられっ子の登校拒否なんて想像できないほど自信にあふれていた。
その彼が、六年生の時に「甲子園に行ってプロ野球選手になりたい。」と口にした。よくあることといえばそうかもしれない。
野球をしていれば、誰もが考えること。甲子園とプロ野球選手。
しかし 彼のそれは違っていた。次を見据えて、自分自身のモチベーションを高めていた。
「中学時代から硬式ボールで野球がやりたい。」次の目標に向かって、新しい道を始めようとしていた。
実は、当時、ある人から中学硬式チーム(シニア)の運営・指導をしてみないか?と声を掛けられていた。
そのチームは、部員不足から休部状態。専用グランドもなく、引き受ければ苦労をするのは目に見えていた。
あえて引き受ける覚悟をした。
そして、彼の次のステップは始まった。
しかし、そのシニアチームに集まったのは、エンジェルスのチームメイトを中心に6名。試合もできないスタートだった。
その上、専用グランドもない。さて困ったものだ。
私の自宅の脇に、昔、私の親父がやっていた工場の跡地があった。とりあえず、そこを室内練習場にすることにした。
そこにネットを張り、人工芝を敷いて室内練習場を作った。マシンをセットして、毎日打ち込めるようにした。
狭い練習場で、キャッチボールやティバッティングなど基本練習の繰り返し。試合に出られなくても、彼らは一切 文句も言わなかった。
中学一年の時は、とうとう試合は(もちろん練習試合も含めて)一試合もできなかった。
そのころ、専用グランドの用地を貸してくれるという方が現れた。
次はグランド作り。
練習の合間に、グランド作りである。
グラブ・バットを、スコップ・一輪車に持ち替えて、土方作業。
それでも一切、文句や愚痴一つ言わなかった。それより、自分たちのグランドをもてる・・という希望の方が大きかったのかもしれない。
「こんな苦労が、いつかは笑い話になるといいな・・・」私は、いつも言っていた。
そして、後輩が入団してきて、ようやく試合ができたのは中学2年生の春。それとて9名しかいない弱小チーム。
一人が怪我すれば、それで終わってしまうと究極の状態。
しかし、野球ができること・試合ができることの喜びをしみじみと感じていたと思う。
団員も増えてきて、試合にも勝てるようになってなっていた。
そして、高校進学。
私は、すかさず、名将と呼ばれる監督がいる、その高校を薦めた。
その彼が、甲子園のグランドに立っている。
目の前で、生き生きと輝いてプレーしている彼の姿に、涙が出ないわけがない。
その彼とは「谷井竜太」 水城高校のトップバッターである。
いろいろな方々に支援していただき、応援していただき、今の自分があることは彼が一番知っていると思う。
そして、高校二年でつかんだ甲子園が、彼のゴールでないことは、やはり彼が一番 わかっていると思う。
そして、次のステップに向かって、水城高校の新チームで彼の試練は始まる。
最後に・・・
今 もし いじめられっ子・登校拒否のお子さんをお持ちのお父さん・お母さんがいたとしたら、決して希望を失わないでほしいと思う。
何かに向かって挑戦して、よき人との出会いを求めて、がんばってほしい。

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