2007/9/28

プルートで朝食を  映画&アート

ドラマ、映画、演劇界にはゲイが多い。だからLGBTを扱った作品も多くなる。映画監督にもゲイは大勢いるけど、あえてカミングアウトしていない映画監督も多いような気がする。ただゲイにシンパシーを感じるだけなのか、アウトしていないだけなのかわからないけど、ガス・ヴァン・サント、ペドロ・アルモドバルなどはほとんどゲイ映画しか撮らないし。ノンケだけどゲイを題材にした映画をよく撮る監督としては、デビッド・クローネンバーグやケン・ラッセルやアン・リーがいる。キャンプな世界が好きな男おばさんなのか、ゲイ=社会の異端児と見るか、さまざまだけど。

アイルランドのニール・ジョーダンもゲイ(+社会)映画が多いが、本人がどうかはわからない。少なくとも“傍観”というより”主観”に見えるけど。「モナリザ」「クライングゲーム」「インタビュー・オブ・ヴァンパイア」、みな特殊な社会情勢で隅っこに追いやられながらも健気にしぶとく自分を貫くゲイの生き様だ。

「プルートで朝食を」は、主人公パトリック(キリアン・マーフィー)は自分をキトゥンという女の子だと思っている。どっからどう見ても性同一性障害だと思うけど、ほとんどの映画説明には「女装好きの青年」と説明されている。映画見れば、キトゥンのほうが主人格だとわかると思うのだけど。さては見てないな。

可憐な乙女であるキトゥンは慎ましやか、かつ貪欲に自分のままで生きていく。生まれてすぐ自分を捨てた母を捜しにロンドンにたどり着いた彼女は、オールド・コンプトン通りの覗き部屋で働く。母=往年の女優に似ていることなど、ゲイっぽい視点だ(オールド・コンプトン通り近辺はソーホーにあるゲイエリアで、故デレク・ジャーマン行きつけのケーキ屋やニール&クリスが行きつけ(?)のワインハウスもここのすぐ近くにある)。

キトゥンはもちろん最後まで自分を貫き通す。変わっていくのは彼女ではなく、まわりだ。それはとても小気味いい。映画の中では、トランスジェンダーで、IRAテロリストの疑いをかけられる社会の異端児であるはずのキトゥンが絶対的存在だ。LGTBを奇妙なものではなくごく当たり前の魅力的な(たまに自己中な)素の人間として描くジョーダンの目は、とても公平に思える。ゲイであろうがなかろうが、異端児を公平に扱う社会を(決して押し付けがましくなく)、ジョーダンは望んでいるのではないか。ジョーダンのもうひとつの課題である、アイルランドとイングランドの関係についても然り・・・。

余談だけど、アイルランドとイングランドの関係というと、U2の「With or without you」を思い出す。愛した人がイングランド人だったので、"君がいても、居なくても(どっちにしても悩)"なんですよね。

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少なくともマーガレットより美しいキトゥン。
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