「あのね、きょうぼく、おおきなふうせんにはいったんだよ。
すごくきれいでね、ふわふわしてた。さわってみたら、ふわふわしてたよ。」
今日運動会を終えたショウタは、家に帰って一番にそう言いたかったのかもしれない。
いや、もしかするとリレーでグランド一周走ったことかもしれないし、
かくれんぼしてたらママに見つかったことかもしれない。
ショウタは言葉に出さないけど、きっとそんな気持ちでいっぱいだったことだろう。
話は変わる。
今日の運動会で思ったこと。
全員リレーでアンカーにバトンが渡った。
青組み少し優勢で、追いかける白組。
力は互角か、いや白組が少しずつ詰めてくる。
「がんばれ!」
どちらへともわからない声援。
とその時、コーナーのコーンに足を取られた白組走者が転倒した。
グンと差は広がり、青組みが堂々のゴール。
優勝を讃える拍手が会場に響く。
その拍手がまばらになったころ、転倒しながらも必死でゴールを目指す園児が第四コーナーにかかり、再び拍手は大きくなった。
ゴールした園児は泣いていた。
その涙はくやしさの涙だろうか。
場内はその姿に拍手した。
これらの拍手はいったい何なのか・・・
優勝者へは称賛の拍手。
では、負けた方への拍手は?
これを説明できる人はどれぐらいいるのだろうか?
いや、説明なんかはいらない、ただ自然に起きる感動の拍手なんだと思う。
実は優勝者への拍手も
「優勝したから拍手をした」
というよりも、
「がんばっている姿に感動したから、自然に手を叩いていた」
という方が本当じゃないだろうか・・・
勝っても負けても、
必死で何かをする姿は感動を呼ぶものなのだ。
結果はともかく、その姿勢、道程にこそ意味があるのだろう。
今日、ショウタはみんなと同じ距離、グランド一周を走らせてもらった。
親としてうれしかった。
同じ条件で、同じに頑張って、結果はいろいろ。
これだから感動するのだ。
少し前に流行った(?)ゴールは同じで、スタートラインが違う小学校の徒競争。
速い子も遅い子も、みんな一緒にゴールするのがいいとか・・・
感動も何もない、あるとすれば人としての成長を妨げる弊害だけか。
そんな風に思っている。
ただ、ショウタをはじめ、障害を持つ人に何でもかんでも健常者と同じにするのも、また違った意味でおかしな話になる。
できないことをサポートしてもらい、
体力に応じた競技設定をしてもらい・・・
事実、今日のショウタも、先生方に終始サポートしてもらいっぱなしだった。
これは現在のショウタにとって必要なものであり、他の障害児者、みなさんにも大なり小なり当てはまることなのだ。
こうなると、なんだかはじめに書いた「感動の拍手」の理屈と矛盾してくる。
同じ条件だからこそ感動する。人としての成長がある。だから障害を持つわが子も同じ条件で頑張らせてほしい。
しかし、障害児のショウタは特別なサポートなしの(園児としての)自立はむりだ。
実はこの相反する二つの条件、これらをその子その子に応じた形や割合にミックスさせた上に、その子の成長を願うという心を組み合わせた時に、本当の支援ができるのだと思う。
何でも特別、はダメ
何でも皆と同じ、もダメ
その中間辺りの、その子に応じた割合を、その子の成長を願いながら探し出す。
そんな支援を、いや親としての役割を、
今日の運動会で気づかせてもらった。
最後に、先生方お疲れ様でした。
あと、実況がとてもよかったです。

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