9月初め、ホノルルで開催されたIUCN国際自然保護連合(IUCN)主催の第6回世界自然保護会議(WCC6)の、倫理と環境ワークショップ「すべてのいのちをつなぎ直すための信仰を基盤としたモデル(Faith-based models for reconnecting with all sentient beings)」に参加した。宗教学者による問題提起に続き、インドネシア、南アフリカ、そして日本、韓国での取り組みを発表した。これを企画した社会課題に取り組む仏教者と気候変動はじめ環境問題に取り組む宗教者による二つの国際ネットワーク(International Network of Engaged BuddhismとInter-religious Climate and Ecology Network)では、今回に限らず、このような実践発表と議論を繰り返してきた。信仰に根ざしたビジョンによって、自らの来世に止まらず世界の行く末に責任をもつ生き方を切り開いていく諸宗教の信念をもった実践にいつもながら大いに刺激を受けている。
そこで最近特に感じることは、他の国、他宗教の宗教者たちが、危機的な問題意識に対して、宗教的・倫理的なモチベーションを全面に出して社会に訴えている力強さだ。それに対し、私自身は、むしろ市民による活動を通して、仏教(縁起の世界)を確認しているという、真逆な流れがある。日本では宗教的理念を掲げることで対象が限定され、一般的には胡散臭いものとしてマイナス要因になる。
そしてそこには国家と宗教の関係の違いをも痛感する。他の国の人々にとって、宗教は国家よりも上位の概念であるのに対し、日本では国家が宗教を支配している。そもそも鎮護国家のために政策として取り入れられたことに始まる日本の仏教である。「大師」も天皇から賜る尊称である。そのため、日本では国家の政策や体制を問う宗教団体はきわめて少ないし、社会課題に正面から取り組む宗教者は少数派だ。このような構造が、オリンピックなどの異常な日本贔屓(びいき)報道などに疑問を持たず、安易に「ニッポン」に絡めとられていく貧困な精神文化に通底していると、宗教者として反省するとことである。
理想を単なる建前に終わらせず、あくなき目標として生き方の根底に位置づけ、正しい「信」の力を育てていかなくてはならない。そして現代は、それぞれの宗教の理念を超えて、世界に共通する人間社会の思想―平和・人権・環境―が、様々な国際条約などによって共有されている。
実際に、それぞれその教団の中で極めて少数派ではあるが、キリスト教やイスラム教、あるいは教派神道など諸宗教の人たちと、意識ある市民社会と共通のビジョンを持って、様々な社会課題に取り組むことに大きな希望を感じている。
(2016/10ソーシャルジャスティス雑感)

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