毎日、見樹院の過去帳に記載されている祥月命日に当たる方のご回向をしています。今日4月22日は銀座のナイルレストランの創業者の故A・M・ナイルさんの祥月命日です。
インド・ケララ州出身のA・M・ナイルさんは、京都大学に留学後、満州でインド独立運動に参加し、戦後、東京裁判のパール判事の通訳をつとめ、1949年、銀座でナイルレストランを開きました。
私は、母の実家が築地だったことから、小学生時代から一人でカレーを食べに行き、特に学生食堂をサークルのたまり場にしていた大学時代は、混雑する昼から練習が始まる時間まで、ぶらぶらと歩いて銀座に「通っ」ていました。
A・M・ナイルさんはいつも、当時はまだ1階しかなく、少し傾いた床に「日印親善は台所から」と大きく書き込まれた昔の大衆食堂風のテーブルが並ぶお店の、入口脇のレジのところにいらして、よく声をかけていただきました。
とはいっても結構辛口で、お金を払うとき「お札は折ったまま出すものではない」と指導されたり、印象的だったのは、私の仏道修行?時代、一緒に行った友人たちが皆「いただきます」と手を合わせたのを見て、「君たちどこ大学か」と訊ねられ、「大正大学」と答えると、「そうか、大正大学はみんな仏様に手を合わせる、慶応大学はお金に手を合わせる」と言われたことでした。そんなご縁から、2代目のG・M・ナイルさんともとても懇意にさせていただいております。
回顧録『知られざるインド独立運動』を拝読して、ただのカレー屋のオヤジではないとは存じていましたが、1984年に、外国人としては異例と言われる「勲三等瑞宝章」を受章され、その祝賀会にも出席させていただき、あらためてインドと日本の歴史い深くかかわられたご功績にあらためて感動しました。
そしてA・M・ナイルさんが亡くなった時、G・M・ナイルさんからご葬儀を依頼され、住職とはいえまだ若造だったので、親寺である傳通院のご貫主に導師を勤めていただき、私も何度か訪れたことのある白山のご自宅で、旧白山通りと本郷通りの間を通行止めにして執り行いました。1990年のことでした。
毎年のアースデイ、私にとってはA・M・ナイルさんの存在を通して、世界のこと、国家、宗教、人権を考える日でもあります。

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