いま、8割の方は病院で亡くなります。ほとんどの方はそこから葬儀屋さんとの関係が始まります。まず、病院側から、遺体を運び出すよう促され、搬送用の寝台車を手配することになります。そこで業者の心当たりがないと、病院から葬儀業者を紹介されます。
多くの人はそこで初めて具体的に葬儀について考え始め、一方で病院側から「早く」というプレッシャーも伴って、そこが業者にとって最大のビジネスチャンスになります。なので、業者から病院に多額の裏金が流れます。当然その経費は利用者の払う代金から回収されます。
同時に搬送先の検討となります。かつては自宅が一般的でしたが、昨今は住宅事情もあり、また近隣に目立ちたくないということで、直接葬儀場あるいは業者の保管場所に運ばれるケースが多くなっています。そして葬儀の日程や段取り、葬儀の内容を決めていくのにあたっては、準備も知識もない遺族は、その業者が提供するオプションから選択する以外ありません。
病院側の葬儀業者を利用しない例で目立つのは「互助会」です。葬儀はお金がかかるという不安、あるいは子どもに負担、迷惑をかけたくないという思いで加入しています。「互助会」というと非営利的な響きもあり、親切なサポーターと感じて加入するお年寄りも多くいます。しかし実態は葬儀業者であり、前払いという形での「囲い込み」です。積み立てていたから安心と思っていても、実際は多額の追加料金が必要になるケースがほとんどです。払った分だけでいいからと言ったら、本当におざなりな対応をされたケースも見ています。また互助会業者が集めた資金を別の事業に流用して手元になく、大きな問題になるということも取り沙汰されています。互助会に入っていなくても、業者はいつでも葬儀を受注します。結果的に多額のお金を払い込んでいる加入者にとって、「その時」に選択肢がなくなるだけでメリットはありません。
葬送は全ての人に何らかの形で必要であるにもかかわらず、意識から遠ざけられ、日常の問題意識も薄く、知識も乏しいという現実が、非常に不健全なシステムをつくり出しています。割高な料金は、バックマージンや裏金という形でダーティな動きをします。いかに考える時間を与えず、その仕組みに絡め取るかというのが、今の葬儀を取り巻く現状なのです。
以上のような状況は、決して昔からあったわけではありません。ここ数十年の話です。かつては親戚や地域コミュニティが担い、つまり一人一人が参加して行われていたことです。私が住職になった頃は、自宅で町会が中心となって行われる葬儀が主流でしたし、20年も前に定年退職したお父さんの葬式では、かつて勤めていた会社の総務部が受付をしているなんてことも普通でした。
そういう繋がりが分断され、何でもかんでもマネーに置き換え「利潤」が「Justice」となっている社会を考える一助にと思い、唐突ですが葬儀についての現状報告でした。
(ソーシャル・ジャスティス基金ニュースレター 委員の雑感に掲載)

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