9月1日の防災の日は、各地でイベントが開催される。大正12年の関東大震災のメモリアルと教訓がベースにある。そして、関東大震災には、もう一つ、私たちが学ばなくてはならない重要な教訓がある。
八木ヶ谷妙子さんに初めてお会いしたのは、今から20年以上前、お世話になっている税理士事務所が主催する中小企業経営者向けの勉強会だった。もともとは小学校の教員をされておられたが、定年後、日中友好のために退職金を元手に、主に中国から働きに来ている人を対象にした、免税品を扱う電気屋をはじめたと言う。当時で80才近いお年だったが、その他にも高齢者福祉をはじめ様々な問題に生き生きと関わっておられた。
電気屋を始められた動機は、戦前、教師として中国に赴任され、日本が中国に対して行ったことを目の当たりにし、侵略の片棒を担がされた反省と、真の平和友好を築きたいという強い思いだ。実際素人商売で、店としてはどうもうまくはいっておらず、中国人スタッフに騙し取られたりしていたのも意に介さず、自宅もみんなに開放して、底抜けに純粋な信念に心打たれた。
その八木ヶ谷さんがもう一つ使命としていたことがある。小学校5年生のとき関東大震災に遭い、住んでいた千葉県習志野で朝鮮人の虐殺を目撃した。駐屯地があった習志野に東京から連行されてきた朝鮮人が、それぞれで処分しろと
各地域に配られ、それを村の男たちで殺した。みんなが共犯になったので、誰もが口をつぐみ、闇に葬られていった。
折しも震災70周年を機に、八木ヶ谷さんは、殺った人達はすでに皆他界した今、自分たちが証言しなくてはと精力的に語り部となった。誰がやったとか裁くためではない。なぜ人々はそんなデマに乗って虐殺に加わったり、それを勢いづける空気が作られていったのか。殺されていく人の目の訴えに出会った者の責任。二度と繰り返さないために、何をしなくてはならないのかと、人々に問いかけた。
私も八木ヶ谷さんの話をきっかけにいろいろ書物や資料をあたって調べた。私の住む地域からもそう遠くない、江東区大島で中国人の社会活動家・王希天さんが虐殺された事件に関する詳細な記録も読んだ。デマと作為、衝動と命令。不安と憎悪を操り、ごく当たり前の善人を殺人者にしてしまう権力者のやり口。人間の心を持ち、冷静に事実を判断すれば起きない悲劇。
カンボジアとパレスチナで活動してきた私にとって、自分の足元にあった暴力、虐殺の歴史は決して過去のものとは思えなかった。そしてその翌年、1994年4月、ルワンダで大虐殺が始まった。デマによって蔓延していたガスが爆発した。決して他人事ではない悲劇だった。
反戦平和を最大の目的として、法然門下で僧侶になった私にとって、八木ヶ谷さんとの出会いによって、平和というのは一人一人の内側から築いていかなくてはならないということを実感した。ミクロマクロの暴力と、常に対峙していくことを学んだ。
その八木ヶ谷さんが、震災90周年の今年、1月2日に99才で他界された。彼女の思いに共感する多くの「若い」仲間たちがそう思っているだろうが、あと一歩頑張れと、熱いバトンを渡された思いで、今日の日を迎えている。

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