5月から8月にかけて、寺はお盆と施餓鬼のハイシーズンです。お盆と施餓鬼は本来別の行事ですが、どちらも「餓鬼」の供養ということで共通し、東京では関連行事として扱われることが多くなっています。
「盆と正月」という言葉通り、「先祖」が帰って来る日本土着の信仰が一つのベースになっています。それに仏教の「ウランバナ(盂蘭盆=うらぼん※1)」がくっつき、お盆行事になったと言われています。
盂蘭盆は、お釈迦さまの十大弟子の一人「目連」の逸話に由来します。何でも見通すことのできる千里眼の能力を持つ目連が、亡くなった母親を探すと、貪(むさぼ)りの世界である「餓鬼道」に堕ちて苦しんでいた。お釈迦さまに相談すると、母親の性で、自分の子どもを優先して可愛がったためだと言われ、母親を助けたいのなら、餓鬼道の全ての餓鬼たちを救わなくてはならない。そのために雨安居(うあんご=雨季の修業期間)明けの僧侶に飲食を供養するようにと教えられる。そして、次から次へと無数に存在し、際限のない欲望と飢えに苦しむ人々全てを満たすため、限りある食物を無限の滋養に変える呪文を唱える「施餓鬼」の法を修する儀式として、仏教の盆行事が行われるようになりました。
ですから、盆飾りに備える食べ物は、先祖に対する供養ではなく、喉が細くなっている餓鬼のために細かく刻んだナスをはじめ餓鬼に施すものであり、棚に敷くムシロを手前に垂らすのは、餓鬼がよじ登って食べ物にありつくためです。そのように、先祖を迎えるにあたり、自分の身内だけでなく広く施すとともに、餓鬼に施しをする「功徳」によって得られる「善果」を先祖にふり向ける、いわゆる「債権譲渡」の儀礼でもあります。
そして「餓鬼道」という苦しみの世界は、仏教でいう「六道(ろくどう)=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」の一つで、それは私たちの心のあり様の認識でもあります。その中でも、欲望というのはとくに私たちが陥りやすく、自他共に苦しみの原因となる、この世界の悪の代表格と言えます。その「欲望」を乗り越える方法として、まずは「分かち合う」ことであり、その行為が考えるゆとりをもたらし、欲望のメカニズムを冷静に見極めることを説いています。さらに言えば、欲望が引き起こす問題は、未来にまで深く禍根を残すという戒めでもあります。
つまり「お盆」は、貪りを鎮め、過去から未来へ時空を超えて全ての生きとし生けるものの幸せを願う行事なのです。いま、私たちの際限のない欲望が地球上の命と未来を蝕み続けてきたことを正面から受け止め、大切な人々との交わりの中で、これからの生き方を深く考えるときにしていただきたいと思います。

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