3月3日、4日、初公開上映会開催
もう10年以上前になるが、青森県の六ヶ所村に行った。「原子力行政を問い直す宗教者の会」の集会に参加した。日本中から核のゴミが送り込まれ、名目は一時保管であるが、最終的な行き先は定まっていない。プルトニウムとして再生するといっても、またそれがゴミになって戻ってくる。当然その過程でも核廃棄物は膨れ上がる。
そんな放射性廃棄物を押し付けられるところ、受け入れるところとはどんなところなのか、またそこの人々はどんな思いでいるのかということが知りたかった。消費文明を謳歌する人々は、その快適性利便性を捨て、原始的な生活に戻らない限り、どこかがそういうマイナスを引き受けなくてはならない“必要”悪だと言う。そういう危険なものは、人の少ない所につくるのは当然だと都会の人々は言う。それによって莫大な利益が転がり込んでくるのだから、地元の人は歓迎している。反対する連中は何だって反対するし、ゴネ得を狙っているんだと言う。
しかし、私がそこで出会ったのは、国の政策によって切り捨てられた人々だった。困窮し過疎化し、疲弊していくコミュニティの中で、立ち直りようのない状況に追いやられる人々は、すでに50年以上前から、国に捨てられた人々だった。弥栄という地域は、大戦前、政府の甘言に乗せられた満蒙開拓に夢を打ち砕かれ、すべてを失って帰ってきた人々の村だ。そこが今、命とは共存できない放射性廃棄物に埋められようとしている。
《時間があったら拙稿『押しつぶされる側から開発を考え、切り捨てられる側から宗教者の在り方を問う』http://www.juko-in.or.jp/21kaikjf.htm#21kaikjfosada をご覧下さい》
私は縁起を説き、苦を原点に生きる釈尊の法を受け継ぐものとして、物事とくに社会問題を考えるときは、最も弱いところ、最も被害を受け危険に晒されている人々の視点から考えるべきだと思い、実践している。大所高所から見るより、自分の都合を押し付ける支配者の論理からも離れ、苦の側から見ることは、自らのありようを強烈に照らし出すことになる。経験から実感することだ。それは10年前「宗教者の会」に集った仏教者、キリスト教者の多くが共有している姿勢であった。
今回製作者の鎌仲ひとみ監督からご案内をいただき、明日にも観にいきたいと思っているが、『六ヶ所村ラプソディ』は、まさにそういう視点で描かれた映画である。いま、多くの人々の知識や意識は、巨大メディアに支配されている。メディアは国家と巨大企業に支配されている。本当の「声」に触れ、人々の地平に立って考えることが、人間が人間らしく自由に生きるための要件だ。六ヶ所村の元村長さんが「“君が代”ではなく“民が代”を」と訴えた言葉は、10年以上経った今も私の脳裏から離れない。
ぜひ多くの方に観て考えていただきたいと思い、鎌仲さんのコメントを添えてご案内する次第である。
『六ヶ所村ラプソディー』オフィシャルブログサイト
http://rokkasho.ameblo.jp
くらしの根っこ、そこに核がある
六ヶ所村には核燃料サイクル基地がある。その中心は使用済み核燃料再処理工場だ。世界で最も新しいプルトニウム製造工場となる。ここが稼動すれば日本は新たな原子力時代に入ってゆく。今、エネルギーをいったいどうするのか、私たちは岐路に立ち、選択を迫られている。私はイラクでがんや白血病になった子供たちと出会った。湾岸戦争で劣化ウラン弾が使われてから、がんの発症率が上がり続けている。しかし、病気と劣化ウラン弾との関係は未だ医学的に因果関係が証明されていない。子供たちが病気になり続け、死に続けている現場から前作、『ヒバクシャー世界の終わりに』は始まった。身体の中に放射性物質を取り込んだ現代のヒバクシャに出会う旅の終着点は私たちの足元、六ヶ所村だった。劣化ウラン弾は原子力産業から出てくる廃棄物から作られている。核の平和利用の副産物なのだ。
全国から核廃棄物が集まってくる六ヶ所に生きるということは、くらしの根っこに核があることを日つきつけられながら生きることに他ならない。電気エネルギーを使う日本人全ての難題に、地元の人々は向き合って生きている。その様々な生き方とくらしを見つめた。日本の原子力政策は揺ぎなく、産業は巨大だ。今でも夢のエネルギーとして原子力は位置づけられている。そのような原子力とどのように向き合うのか、それは一人一人がどう生きるのかを問われることに等しい。自分自身の選択を生きる人々の日常。そこから私たちの未来が立ち上がってくる。
監督 鎌仲ひとみ

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