●「図解 『テロとの戦い』の本当の対立軸」にいただいたコメントへの返信として
現在の世界は、「テロ対策」の名の下に戦争がどんどん拡大し、私たちも巻き込まれていきます。
私は1991年以来、イスラエル及びパレスチナの問題を考え、平和を希求する双方の人々と付き合つつ現地と関わってきました。そこで、私たちが思い込まされていることが、じつは大きな間違いであり、そのことが紛争、抑圧、差別、貧困など、一部の人々を苦しめる問題状況を固定化あるいは悪化させているということを痛感させられることになりました。
そして、思い込ませようとする側には必ず「意図」があるはずです。
イスラエル・パレスチナにおいては、多くの人々が「民族対立」「宗教戦争」と思い込んでいます。3つの宗教の聖地であるエルサレムは、対立のシンボルとみなされています。あるいは数千年の歴史を踏まえなくては解決できない問題として、それ以上考えることをやめてしまいます。もしくは、一神教の人々は排他的で絶対共存など無理だと見捨ててしまいます。
確かに長い歴史の中で、争いもあったでしょうし、時の政治において抑圧や差別もあったでしょう。しかし、数千年を経て、今なお3つの宗教の町が残り、人々がそれぞれ祈り、生活をしているということは、圧倒的に共存のシンボルであると捉えるべきだと私は思うのです。実際、その場に身をおけば、一部のシオニストがアラブ人を追い出そうとしているとしても、それぞれの暮らし、宗教、文化が共存していることを、だれもが実感するでしょう。
紛争や差別など、現象として現われる問題は、その時々において必ず原因があり、その状況を作り出す構造があります。それを追求し、認識しなくては、原因を取り除き、構造を変えて、本来の解決の方向へ向けることはできません。
今の問題の直接的な原因は、イスラエルによる軍事占領であり、問題の本質は「暴力の連鎖」ではなく、パレスチナ人に対する抑圧や人権侵害です。そしてそもそもの原因をつくったのは、国連の分割決議であり、イスラエルの一方的な建国です。もちろんイギリスによる委任統治やユダヤ人への迫害など、そこに至る経緯も説明できますが、少なくとも47年の時点で、別の選択肢や進め方はあったはずです。
人々の間違った「思い込み」は、本当の原因や構造への追求を止め、問題の解決を阻害しています。その思い込みのために、イスラエル・パレスチナ問題に関して、和解や赦しをテーマに語られることがあります。しかしそれは、本質的な問題から人々を遠ざけ、本来法的、論理的に判断すべきものを、情緒的に誘導するという策略に陥れかねません。
私はそこに「意図」を感じます。その思い込みを「擦り込む」のは政治的なプロパガンダであり、商業メディアです。商業メディアは、「売る」という目的のために、問題を単純化したり、受け手の好みに合わせるということもあるかもしれません。商品としての報道では、悲惨さを“ウリ”として「事件」として扱われることが圧倒的に多くなります。そこに登場する“キャスト”は、期待される役割を演じる形で、さらにイメージを固定化されていきます。
しかし前提として、商業メディアは、スポンサーの意向に沿う道具という立場だということを考えなくてはいけません。つまり、メディアを支配する構造に眼を向けるべきだということです。さらに言い換えれば、人々の思い込みをコントロールするものの正体を見極めることが必要だということです。
もちろん今述べたことは、状況証拠にもなっていない推測に過ぎないかもしれません。だからこそ現場を尊重し、記事にはならない人々の生活に根ざした理解が必要です。生身の一人一人が持つ共感や反感、優越感や劣等感、自尊心や羨望、説明の出来ない好き嫌いなどについて、個人の資質、宗教や文化、政治経済的な都合など、由来するものが何かということも、つき合っていると見えてくるものです。
イスラエルからもパレスチナからも好意的に受け入れられるというアドバンテージを持つ私たち日本人は、NGOとして草の根の活動や交流を続け、人々の不安や怒りなどの苦しみに寄り添ってきた切実さと、その苦しみから立ち上がった双方の平和的で前向きな活動との連携をベースに、状況認識を深め、問題のメカニズムを捉えようと努めてきました。その上で一つの見解を示させていただいたのが、『図解 「テロとの戦い」の本当の対立軸』です。
当然これで全てが説明できるわけではありませんが、アフガニスタンやイラクで、混乱を引き起こし多くの人々の命を奪う側に私たちがついたのも、S・ハンチントンの『文明の衝突』や911同時多発テロ、そしてTVネットワークやハリウッドを動員して、思い込みと感情による“過ち”を犯させる構造にはめられたからです。
民主的な社会に生きているという思い込み、十分な常識と知識を有しているという思い込みが、歪んだイメージを擦り込む策にひっかかってしまったことを認めさせません。自分たちが不当で強引な力に支配されている自覚がありません。
強欲や感情や無知という人間の弱さによる過ちを制御するのは、かつては神や宗教でした。しかし世界の歴史は、さまざまな文化や価値観を相対化しつつ、過ちを教訓とし、国際法をはじめとする普遍的なルールを形成し発展させてきました。まだまだ武力(暴力)が解決の一手段であるという現実はありますが、国際法をはじめとする合理的な法規に則った話し合いが優先される方向に向かうべきだと考えます。そういう知性を発揮し、高めていくのが、とりあえずこの地球を支配している人間の使命であり、共存への条件だと思います。
ここで気づくべきことは、そのような人類社会の知性の到達点にありながら、嘘の情報で思い込ませ、感情で煽る側の意図です。法や論理ではなく「好き嫌い」の多数決に持ち込むトリック、あるいは「テロリストか正義か」「改革か否か」といった内容の伴わない乱暴な二者択一の罠です。
私は決してテロや暴力を肯定するものではありませんが、私は単純にパレスチナの人々に「抵抗するな」、子どもたちに「石を投げるな」と言うことはできません。圧倒的な武力と政治経済力と情報力によって彼らが追い込まれていく現実を具に見ているからです。そして不正義を放置する世界中の「思い込み」が、彼らに無力感と絶望を与えていると実感するからです。
そして、生命を危険にさらされ、人間として生きる時間を奪われている彼らの視点からこそ、本当の世界の構造が見えてきます。私は「パレスチナ子どものキャンペーン」の活動だけではなく、イラク、アフガニスタン、スーダン、北朝鮮、カンボジアなどでの活動に責任を持つ「日本国際ボランティアセンター(JVC)」の理事として、この“対立の構図”が現在世界で共通するものであると確信しています。

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