二代目タイトル「平成21年 日本躍進・発展の年」
旧タイトル「とある反日にスパム認定されました」
反日と思われる方のブログへのコメントが規制されたから始めたブログ。いつの間にか日本の将来について考えるブログに。
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小5女子と話をしててヤバいなと思ったのは、彼女曰く「紙の漫画の読み方が判らない(コマの順が判らない)」と。スマホの漫画は読める、と。そういえば談話室の漫画本、読んでるのは男子ばかりだと今更に気が付いた。彼らには幼稚園から読めるコロコロがあるけど、女子にはそれに該当するものがないのだ
— じゃりねこは本を作りたい (@jyaricat) 2018年5月3日
出版社も本屋もこのへんほんと対策考えないと、今の少女漫画も近い将来、古典文学の原典みたいに「文法知らないと読めない、限られた人にしか共有できない趣味」になってしまうのかなあとちょっとしみじみした……
— じゃりねこは本を作りたい (@jyaricat) 2018年5月3日
小学生に圧倒的人気を誇る「サバイバルシリーズ」も、横書きなのでコマの追い方がちょっと違う。あと小説も「行をまたいで続けて読む」「文節で区切って意味を理解する」には、ある程度の習熟が必要なので(だから絵本は文節で一マス空けてあることが多い)、約束事の理解というのは難しいんだなあと
— じゃりねこは本を作りたい (@jyaricat) 2018年5月4日
「ちゃお、なかよし、りぼんは?」と聞かれたけど、このあたりの売上って激減していましてな(´・ω・`)
— じゃりねこは本を作りたい (@jyaricat) 2018年5月4日
・単体本屋がないので買いに行きづらい
・習い事があるのでそもそも買いに行く時間がない
個人的には、コロコロサンデージャンプはコンビニでも買えるけど(確か7-11)、これらはそうじゃないってのが
亡くなった伊丹十三がエッセイで、つまらない人間の傾向の一つとして「嫌いなものについて話すことを好む」ということを挙げていた。その頃の伊丹にとっては、それはサラリーマンに多くみられるものだったらしい。でもどの本だったかな。 https://t.co/kUT5z7IuqJ
— Akash (@Akash47473353) 2018年5月3日
突然、去年のこのtweetを思い出した。「好きなものの話しかしない」これはオタクには当たり前のことなんだけど、世の中そうでない人が本当に多いのだ。じつは私、大人になるまでピンと来ていなかった。「クサすために本を買う」とか「後で悪口を言うために人間関係を続けている」とかそんな人のこと。 https://t.co/Nu02boatbB
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)オタクだって時に痛烈な批判をすることはあるんだけど、たとえば自腹で買って読んで失敗したなと思った本のことは、そんなにしつこく言ったりはしない。「勉強になりましたw」つって終了、むしろ「好きな本」の「物申したいところ」の話に移りたがる。物は申すんだけど、基底には「好き」がある。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)だから基底に「好き」がない人たちのことを、若い私はよくわかっていなかった。理数系科目が得意な同級生は理数系科目が「好き」で、英語演劇に打ち込んでる子は英語演劇が「好き」で、忙しく働く大人はなんだかんだ言っても仕事が「好き」だと思っていた。でもそうでない人もいる。忘れがちだが。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)「別に好きでやってるわけじゃない」という言葉が出ると、すべて自意識のこじれや謙遜の類いなんだと思い込んでいた。でも、いるんですよ。とくに好きでもないことを別の理由で続ける人たち。そのことに不満もないが、かといって語るほどの楽しい話もないんだ、という態度の人たち。残酷ながら。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)たとえば「子育て」などについてそんなふうに言われると、結構ゾッとするものがあるでしょう……。オタク同士で集まって話すとき安心するのは、積極的にであれ消極的にであれ、そこに何かしら「好き」を見つけたよ、という語調に(習い性で)なるから、そりゃあ、楽しいんだよな。知らない話でも。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)良し悪しの話じゃなく、「当たり前にしていることが有り難いことであるのを、僕たちは忘れてしまうよね」という話です。私は昔「私もオタクになりたぁい、どうすればなれるのー?」と訊いて来る人々に、すっげー腹を立てていたんです。「道は自分で見つけろよ」と。でも今は、もう少し優しいです。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)「好き」の求道をサボるんじゃねえ、マニュアルやショートカットなんてあるわけないだろ当然だろ、バカにしてんのか、くらいに思って激怒してたんだけど、違うんですよ。「好き」がわからない彼ら彼女らは、本当に純真に、ただノウハウを訊いていたんだよね。あんなに邪険にするんじゃなかったよ。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)で、「神谷明の存在から声優という職業を知る、羽生善治の存在から将棋を知るなど、私の場合はまず特定の個人に恋に落ちるのがジャンルへ走る際の常道なので、恋の訪れをすかさずキャッチするようにしていますね」みたいな説明を、ちゃんと言葉にするようになったのは、ごく最近のことなのだよな。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)で、「神谷明の存在から声優という職業を知る、羽生善治の存在から将棋を知るなど、私の場合はまず特定の個人に恋に落ちるのがジャンルへ走る際の常道なので、恋の訪れをすかさずキャッチするようにしていますね」みたいな説明を、ちゃんと言葉にするようになったのは、ごく最近のことなのだよな。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)まどろっこしいけど「自分が当たり前にやっていることを同じようにはできない人たちがいて、彼らが望むなら方法を教えねばならない。なぜならそれは『好き』を増やすことにつながるから」とまでは思う。まどろっこしいのは単純に自分の受け答え技術力の低さの問題だと思えば、鍛錬も苦ではないし。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)国民全体の教育レベルを底上げする学校の先生のような教育者にはまるで向いていないと思うが、教えるプロにならないからといって言語化をサボる言い訳にもならないよな、と考えたりもする。そして私はそうした自主練習は、案外「好き」なのだ。そこにある「好き」も有り難いものだよな。という話。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)オタクは昔、差別迫害されていたのに、近年「オタクになりたい、憧れている」との声を聞いて驚くことがある。そして私はずっと「嘘つけ」と斜に構えた態度でいたんだが、今は一周回って「君もオタクになろう」の時代なのかもしれぬ。「好き」を燃料にしたオタク的な人間から学びを得よう、の時代。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)その「楽しそうなオタクに憧れている」人たちに「今は何にハマってるんですか?」と訊かれ、「特になくて……」などと曖昧に答えると、落胆させてしまう。わかりやすく絵になるオタクじゃなくて悪かったな!笑。肩肘張るのをやめる、という意味では #40歳までにコレをやめる 案件かもしれない。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)一方で「好きを仕事に」の呪い、というのもある。オタク的な、好きなことが明確にある人々は、好きでもないことをするのは死ぬほど苦痛だと思わされる不幸に囚われがちである。ということはオタク側が「好きでも嫌いでもないことでも淡々とこなしていく」系の人々から学ぶところも大いにあるはず。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)結論は出ないけど、「好きなものの話ばかりをしていて楽しい、というのは、有り難いことなんだよな」というスタート地点からの、断想でした。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)漫画アニメ映画小説の最新動向も把握しておらず博士号取った専門分野も腕一本で食える職人技もなく、「私、オタクを名乗れないのでは?」と考え込むこともあるけど、その言葉の定義は「好きなものの話ばかりする人」程度までハードル下げていいんじゃないの(それで十分高いから)、と思ったりな。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)これも先日どこかで見て衝撃受けたけど、「好きでやってる」の意味がわからない非オタクの人たちには、「その対象の娯楽消費が好きで追っかけてるファン」と「対象自体は好きでも何でもないがそこの研究が大好きなのでその対象にも詳しい専門家」との区別も、つかなかったりするんだよね。要説明。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)なんかこう「○○は憎っくき敵なので、○○について調査して飯を食ってる研究者なんか嫌いだ!」みたいな変なこと言う人たちがいて、昔は全然わからなくて怖かったのだけど、もし自分自身の「好き」さえろくに理解や認知できていないのなら、そういう誤解も生じたりするんだろうなー、と今は思う。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
いま見かけたこのtweetも同じような話をしていると思う。口はばったいけど「才能」なのだよな。遊ぶ才能、面白がる才能、ルールを決める才能、それを改良する才能。「何冊本を読めば書けるようになりますか?」とか訊いてくる人々との埋め難い格差。https://t.co/fa57ghjlB1https://t.co/w0wwLrZCsC
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)そして才能は食えるかどうかとはまるで関係なかったりする。下手に面白がる才能ばかりあるとどこでも遊び方を見つけて満足し、モアベターな新しい環境を求めて旅に出なくなったりもする。私は昔から「置かれた場所で咲きなさい」という標語が嫌いなんです。奴隷鎖自慢の臭いがするからな。黄信号。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)一貫女子校の先生が「置かれた場所で咲きなさい」って言うの、元の言葉は悪くないけど、ろくに社会経験のない教育指導者たちは平然と「婚家でDV受けても容認せよ」「野心を持つのははしたない」くらいの誤用するからね。黄信号。本当にどこででも楽しめる才能があるなら、ここに居ちゃダメでしょ。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)だって、好きなことだけ話しながら楽しく生きていくことは、本当にその才能がある人には、結構簡単にできるはずなんだから。その才能が欠如している人たちが自己改造のためにマニュアルに手を伸ばして勉強するのは自由だけど、その努力を「苦痛」と感じているならやめといたほうがよさそうだしね。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)私は思春期「カースト底辺同士でつるんで人を盾に生存するために好きでもない漫画を読んでオタクの輪に加わろうとする連中」が大嫌いで、そういう級友からは選民思想の厳しい奴だと思われてたと思う。でも今は大人ですし、オタクでない人々のことが少しわかったので、もう少し優しく接してますよ。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)好きなことがあればどうとでも生きていけるし、好きなことを探すのもいいけど、みんなと同じように好きなことを探すのがそこまで苦痛なのならやめちゃえばいいじゃん、きっとあなたには別の才能があるんだよ感情の起伏の穏やかな人生はそれはそれで豊かなんじゃないですかね、というような話です。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
続)(嫌儲には怒られるだろうけど、このスレッドいずれ「やめる」連載か何かの原稿になると思います、先に言っておこう……。)
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
このところ軽い気持ちで書いたものが超拡散されてしまうことが増えたなぁ。自分のバズる力が特段向上したわけではないと思うので、単にTwitter人口動態の変化じゃないかという手応え。それはさておき、今月末にこの調子で人間観察して書いた新刊が出るので、よろしくね〜!!https://t.co/FbQQJaMRvN
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
「お金の若者離れ」(朝日新聞5月5日) pic.twitter.com/EC6p7FHu0b
— Tad (@CybershotTad) 2018年5月5日
似たような出来事が子どものための図書館で起きています。
— もかぐみ (@mocha_gummidrop) 2018年5月4日
とても他人事とは思えませんでした。
現在、似たような境遇で働く者として言葉にせずにはいられませんでした。
この記事を読んでください。
そしてどうか、あまり交流のない方も少しだけ話を聞いてください。https://t.co/6RB5jYezjw
マニュアル接客の何が悪いんですか? コンビニは1日1000人のお客様が訪れるので、1000通りの最適解が求められますが、業務が破綻しますよね。多くの人が好感を抱く接客、その最大公約数がマニュアルです。「こんな接客、求めてない」と割り切れない思いを抱く方は、素数であることを自覚して欲しい。
— 松駒@『ニーチェ先生』8巻発売中 (@matsu_koma) 2018年5月5日
最近の日本人はちょっと要求する「おもてなし」のレベルが上がり過ぎてしまっているな
— いの@大丈夫だ、問題ない (@gass_o) 2018年5月5日
ハードルが上がり過ぎて、相手に対する感謝の気持ちを忘れてしまったのではないか
うちの猫、ちょっと人間臭いところがあるんですけど、私の中でベストオブ人間臭いのが、この、眩しいから自分で少しだけカーテン閉めるところです。いつも全開にしたはずなのに時間が経ってから見ると、少しだけ閉まってるから???と思ってたんですけど、現場をおさえて目ん玉飛び出しそうでした。 pic.twitter.com/WAM6z7toD3
— でと (@detoxYY) 2018年5月5日
線画と塗りをなじませる! 簡単にできる色トレスの方法 | いちあっぷ https://t.co/UvEVtbFrm0 #絵が上手くなる記事はコレ pic.twitter.com/1fsejKSQCM
— いちあっぷ (@ichiup_net) 2018年5月5日
#ご当地萌えキャラまつり#イーたん色紙(^^)
— いわ・せかんど。 (@iwase_kan) 2018年5月6日
飛び入り参加したジャンケン大会で勝ってしまった(笑) pic.twitter.com/sYF17JX9Rj
昨日見てたTVで武田鉄矢が「好きな女の子にあんたなんて大っ嫌い!って言われるとこの子俺のこと好きなんだなって思う」という認知の歪み全開の発言に高橋英樹が「こう言う勘違いバカもいるってことで」と釘をさすツッコミ入れてて高橋英樹の好感度上がった。
— まろきあ〜好きなように呼んでください (@MAROKIAT) 2018年5月5日
こういう主婦ってちっせぇなぁ、どうせ外車だって旦那の稼いだ金で乗り回してるんだろ。レクサスやセンチュリーやオロチは園内入れないのか?逆に外車ならヒュンダイとかタタモータースでも園内入れるのか?w pic.twitter.com/AWEotvASR5
— 🐸かしけん🐸 (@Kashiken_N) 2018年5月6日
男の子の親御さんには嫌な話かもしれませんが、3~5歳でも男の子は女の子に意地悪を仕掛けるらしく娘の訴えを聞いていたのですが、今日は現場に遭遇。知らない男の子が娘の前にきて木の棒で壁を叩くので娘困惑。すると近くにいたその子の母が「知らない子でしょ?やめなさい」と言ってて超絶違和感→
— ファルコン (@WMnosakebi) 2018年5月5日
「知らない子でしょ?」→知ってるかどうかじゃない。男の子は無意味に女の子にちょっかいを出すの当たり前だと思っちゃダメ!
— ファルコン (@WMnosakebi) 2018年5月5日
私は絶対、娘に「男の子はそういうもんなんだよ」とか言わない。嫌なことをする子は男でも女でもダメ。男の子は本当にそういう子が多いし、現場にいても叱らない親が多い。
ついでに言うと、「男の子は好きな子や可愛い子に意地悪したくなる」というのも、撲滅してほしい。
— ファルコン (@WMnosakebi) 2018年5月6日
それ間違ってるよ。
その歪んだ愛情表現を幼少期に肯定するから日本男性の愛情表現下手に繋がってると思う。
「好きな子には優しくするんだよ」って、海外では当たり前に教えてるのに。
【拡散希望】絵を描く方々に聞いてみたいことがあります…
— 和樺 (@wakabaminohara) 2018年5月4日
皆さんはペンをどのように持って描いていますか?
デジタル・アナログは問いません。アンケートは下のスレッドに付けますのでよろしければお答えいただけると嬉しいです!(ちなみに自分は@です) pic.twitter.com/VaMBiShfn5
女って何? pic.twitter.com/F349PHsPtf
— にょん (@NYN_s3msc15uk) 2018年5月5日
— あっっさりジミー (@zimizimi3567) 2018年5月5日
嘘やとは思うけど
— ケモエ=スキー( ◠‿◠ ) (@5QjVWrWwlnfyg47) 2018年5月5日
最近じゃそれくらい法的に男女の格差があるから笑えんよ。
女がやっても普通な事は
男がやったらアウトってのが多いし。
ガチセクハラと性犯罪はなくなれや
と思うけどね。
ネロの悪行といえばキリスト教徒の迫害が最も有名だが、実はその根拠はイタリアのモンテ・カッシーノ修道院に残る12世紀のタキトゥスの写本のみである。そして、この写本のキリスト教徒を意味するChristiani(クリスティアーニ)の綴りは、元々「e」と記されていたところが「i」に書き換えられている。 pic.twitter.com/EOeGgcv4iC
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
すなわち、写本の元になったテキストにはクリスティアーニではなくChrestiani(クレスティアーニ)と記されていたということだ。なぜこのような書き換えが行われたのか?書き換えた部分の一行下にクリストスという文字があったため写本した者がクリストス=キリストと思って遡りeをiに変えたのである。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
ネロのキリスト教迫害が起こったとされる同時期には「クレストス」という似た名前のユダヤ人反逆者がいた。それゆえ、クレストス(反逆者の個人名)とクレスティアーニ(クレストス派)を、タキトゥスはクリストス(キリスト)とクリスティアーニ(キリスト教徒)を区別することなく記録してしまった。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
つまり、実際にネロが命じたのはキリスト教徒の迫害ではなくクレストス派の鎮圧だったわけである。タキトゥスは、この反逆が起こった当時は幼少ゆえ事件を記録したのは約50年後のことで記録が曖昧になるのは仕方ない。彼がクレストス(ユダヤ人反逆者のリーダー)をクリストス(イエス)と書き間違え、
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
そのテキストがキリスト教徒によって写本される際に書き間違えたクリストス(キリスト)に合わせ、クレスティアーニ(クレストス派)がクリスティアーニ(キリスト教徒)に書き改められ、ネロがキリスト教徒を迫害したという話ができあがってしまった。しかし、人々はこのシナリオを好み広く伝播した。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
実は当時のローマにおけるキリスト教徒の勢力はローマ皇帝が迫害を命じるほど大きなものではない。イスラエルの神の子ナザレのイエスが十字架に架けられ、ペテロによってキリスト教団が設立されたのが西暦30年頃。すなわち、ネロの時代はキリスト教の成立からわずか30年ほどしか経っていないのである。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
この時のキリスト教の信者はわずかなもので多く見積もっても人口の1%にも満たない規模だった。それゆえ、ユダヤ教のマイナー宗派程度にしか認識されていない。というより、ユダヤ教徒とキリスト教の区別すらついていない人が大半だった。認知度が低いためネロはその存在さえ知らなかったと思われる。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
一方、ユダヤ人の反逆者クレストスはこの頃すでに有名であっため、ネロが手を焼き圧力をかけるとするならば、クレストス派の方が有力といえる。加えて、ネロがキリスト教徒を迫害したという根拠は、先に述べたようにイタリアのモンテ・カッシーノ修道院に残る12世紀のタキトゥスの写本に頼るしかない。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
たった一つの怪しげな資料しかないのにネロがキリスト教徒を迫害したという話がこれほど有名になり、多くの書籍・映画作品でもそのように紹介されているのは、ヨーロッパ圏がキリスト教社会であるがために過激なバイアスがかけられているからである。まさしく、人は自分が見たいようにものごとを見る。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日
確かにネロが母親、妻、家庭教師など身の回りの人物を次々に葬った悪帝であることには違いない。しかし根拠なき理由でもう一つの罪状を一方的に押しつけられるのは、本人もたまったものではないだろう。最後に言うなれば、私はネロの行いを擁護するつもりはない。ただ、真実を突き止めたいだけである。
— Shelk (@Shelk_Shelk_) 2018年5月3日