アイデンティティー  3) アイデンティティー

 アイデンティティー

          ◆シトワ エン ドュ モーンド(世界の住人)

      ◆12: 「お前は、なに人だ?」

 ◆コウモリとカメレオン

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コウモリとカメレオン  3) アイデンティティー

2000年の1月にイギリスからフランスに移住して丸8年。イギリス人の父と日本人の母を持つ子供たちの心の故郷は、ここノルマンディーなのです。  筆:滝つぼ

心の故郷ノルマンディー

三人の子供たちも16歳、12歳、10歳となり、それぞれに親しいお友達も近所にいて、ソーシャル・ライフも充実している様子です。近所の子供達は我が家が気に入っている様子で、次々と子供達が我が家に集まってきます。

私も夫もフランス語ができないし、私はいつも働いているしで、親達は子供達のお友達作りにはまったく貢献しませんでした。イギリスにいた頃は私もイギリス社会に溶け込もうと努力したものですが、フランスに来てからは、すっかり手抜きをしていたので、この人間関係は親の力を一切借りず子供達が自分達の力で築きあげたものです。

移住した当時7才だった長男はフランス語もまったくできない状態で学校に放り込まれ、母国語を変更させられ、自力でお友達を作って、この社会に溶け込んで、今の人間関係を確立させるまでに、並々ならぬ苦労をしたのだそうで、「もう、二度とあんな思いはしたくない」のだということです。

イギリス人でもなく、日本人でもなく、フランス人でもない子供達は、どこの社会にも完全には属する事ができません。でも、子供達は自分達の力でノルマンディーの人々に受け入れられ、このノルマンディーを「心の故郷」と感じているようです。

コウモリとカメレオン

私が思うに、異文化の中で生活する時、「コウモリ方式」を取る人と「カメレオン方式」を取る人と、2つに分かれるような気がします。「コウモリ方式」というのは自分の都合に合わせて方針がコロコロと変化する事。「カメレオン方式」というのは、自分の置かれた環境に同化して、そこでの常識に従う事です。方針が変化する点では両者は似ていますが、この2つは大きく異なります。例えばこんな例がありました。

以前、レストランで、ある事について日本人のお客様に「ここはドイツなんだから、ちゃんとドイツ式にやって下さい!」というご指摘を受けました。「そうでしたか。それは失礼しました」という事で、ドイツ式を取り入れました。

しかしその方は、あれほどドイツ式を主張したにも関わらず、レストランではチップを置くのがドイツ式ですが、それについては日本式に切り替えてチップは置いて行きませんでした。

つまり「コウモリ方式」というのは、自分の都合や利害に合わせて「いいとこ取り」をすることです。一方「カメレオン方式」は、たとえそれが自分の元々の文化や常識とは異なり、自分にとっては不利だったり不都合だったりする事でも、潔くその環境のしきたりに従うやり方です。こういう生き方をすればたとえ外国人やよそ者であったとしても、その社会ではきちんと受け入れてもらえるものなのだと思います。

カメレオンに徹した子供達

うちの子供達は小さい頃から「みんなと違う事」を強いらされて生きて来ました。イギリスでも日本でも片親は外国人。フランスでは両親ともが外国人。「みんなと違う事」は子供達にとっては「耐え難い苦痛」なのです。

そんな環境の中で周りから「なんだ、僕らと同じだね」と扱ってもらう事は、子供にとっては死活問題。自己防衛本能が働いて、瞬時にその環境ではどんな風に振舞うべきなのかをいち早く察し、その環境の中に同化して「皆と同じになる」事をうちの子供達は本能的に学び、身に着けたのだと思います。

イギリス人のお父さんと日本人のお母さん。こんな特殊な家庭でも周囲から「仲間はずれ」にされる事なく、自分達の幸せを自分達の手で勝ち取った子供達。フランス語もドイツ語もできるようにならず、日本人社会の中だけで生きている私としては、そんな子供達に我が子ながら、「アッパレ!」と、褒めてやりたい心境です。


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シトワ エン ドュ モーンド  3) アイデンティティー

シトワ エン ドュ モーンド(世界の住人)

私は日本人でありながらイギリス人と結婚し、今はフランスで生活している。そんな親を持つ子供達にとって、こんな事はとても迷惑な話だ。本当の意味でうちの子供達はイギリス人でもなく、日本人でもなく、フランス人でもない。だから自分のアイデンティティーを持てなくて可愛そうだという見方もできる。

そのため我が家では子供達に、「じゃあ、お前は一体、なに人なんだ?」と聞かれたら、「シトワ エン ドウ モーンド」つまり、「世界の住人だ」と答えなさい、と教えている。先ほどと逆の見方をすれば、うちの子供達はイギリス人でもあり、日本人でもあり、文化的にはフランス人でもあるという、欲張りで恵まれた環境にあるという見方もできるわけだ。

過去の歴史を振り返って見れば、これまでに引き起こされた戦争はすべてこのアイデンティティー、つまりグループ意識が原因となっている。そしてそれはある時は宗教として、ある時は国民として、またある時は肌の色など、種類は様々であるが、すべてはこの「アイデンティティー」に起因している。自分と同じグループの人々さえ幸福ならば、あとの人はどうなってもいい。死のうが苦しもうが、ざまあミロ、というわけだ。

本来、宗教というものは、人間が幸福になるためにあるべき物なのに、これまでの戦いの殆どがこの宗教上の問題から発足しており、それは現在でも続いている。自分の信者だけを救い、信者以外はどうなってもいいなんて、ふざけた話だ。神格の高い本当の神様であれば、信者であろうがなかろうが、世界人類、ネコも杓子も、すべてを救って下さるはずだ。信者以外を排斥しようというのなら、それは神様の意図ではなく、時の指導者の意図によるものであり、信者は利用されているだけに過ぎない。

外敵をつくる事で内部を団結され、その仲間意識を利用して、時の支配者は自分の勢力をつけて来た。ヒットラーはユダヤを、日本人は中国人や韓国人を、白人は黒人を、それぞれ虐待した。これらも全ては自分達以外の人種は人間ではないという考え方、つまりは「アイデンティティー」に起因している。

ところがうちの子供達のように世界各国に血のつながった親戚や、友人がいたらどうだろう。イギリスに祖父母や叔父、叔母、イトコ達がいるのと同様に日本にもいる。オーストラリアにもイトコがいるし、アメリカにも遠縁があり、フランスにもイギリスにもベルギーにも大勢のお友達がいる。私とて、その他にはポーランド人、ドイツ人の友人もいるし、その他にも色々な国の知り合いがいる。自分にとって「この人が傷ついたら直接悲しい」という人達が世界各国に散らばっていたら、どこの国とも戦争なんてする事はできない。

人類愛とか世界平和といった哲学的な言葉を使うと実感のわかない概念だったとしても、うちの子供達に「もし、イギリスと日本が戦争になったら、日本のじいちゃんやばあちゃんが死んでも、イギリスのグラニーとグランダディーが死んでもどっちも悲しいでしょ?」と聞けば、迷わず「うん」と答えが返って来る。そして、「人間には誰にでも家族がいて、それと同じ気持ちを皆が持っている」と説明すれば、世界中の人達の幸福を願うべきなのだという事を単純に理解する事ができる。

とかく狭くて閉鎖的な環境の中だけに暮らしていれば、気心の知れた「うちわ同士」には安心感を持ち、「よそ者」に対しては排他的になるものだ。そしてその「よそ者」にも家族がいて、親戚がいて、愛する人達がいるのだという、余りにも当たり前の事実を忘れてしまう。

但し、ここで忘れてはならないのが、このアイデンティティーには、「他のグループに対して自分のグループの方が優越である」という思い込みが誰にでも根底にあるという点だ。

西洋諸国では「自分達は世界のリーダーであり、世界中の平和は自分達の肩にすべてかかっているのだ」という傲慢な自尊心の元に無関係な他国の問題に武力介入しては余計に状況を悪化させて来たし、また「自分達の優れた文化を可愛そうで劣っているほかの文化の人に教えてあげて、幸せにしてあげなければならないのだ」という使命感までをも伴うおせっかいのために、多くの国の人々が価値観を喪失させられ、迷惑を被ってきた。

日本は戦争に負けた事によって、突如として西洋式の生活習慣や考え方を押し付けられた。それによって戦後、日本人はアイデンティティーを失い、価値観の拠り所を求めてずっと苦悩して来た。民主主義とか自由とか個性の尊重とか、これらの思想は元々が自分達の社会から必然的に生み出された概念ではないから、表に掲げているだけで、実際には誰にもよく理解できていなかったため、「自由イコール自分勝手」という単純な方式をもってして、多くの人々が利己的になり、物欲主義に陥ってしまったのだ。

しかし、これらはたまたま西洋人が時の権力を握ったからそうなっただけで、日本人が権力を握れば日本式に、ユダヤ人が握ればユダヤ式に、アラブ人が握ればアラブ人式に、それぞれが同じ事をしたはずだ。

だが本当の意味で「アイデンティティーを持つ」という事は、他人のアイデンティティーの存在をも認め、それを尊重しなければいけない。うちの子供達は日本の家では玄関で靴を脱ぎ、お風呂は外で洗うが、イギリスでは靴のままで、お風呂の水は外に出してはいけないという事を身体で知っている。

靴を脱ぐ方がいいのか悪いのか、お風呂は外で洗う方が良いのか悪いのか、優劣をつけようとすれば争いとなる。こうした違いに優劣をつけるのではなく、違いは違いとして理解する事が他人のアイデンティティーを尊重する第一歩だ。

「世界の住人」である私達はそれを「人権の尊重」とか「相互文化の理解」などといった哲学的概念としてではなく、もっと低次元で身近な、当たり前の常識として知っている。つまりは、人と人、文化と文化をつなぐ架け橋となる事のできる素晴らしい人種なのだ。だから「あなた達は世界の住人である事に誇りを持って生きていきなさい」と、私は子供達にそう教えている。


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