旧いつも一緒・Legacy of Ashes・OUT OF EDEN・ハムレットの吹かす風・ゲームの達人
先輩後輩で検索した結果、3件見つかりました。
2016/2/22
ロスチャイルド家は誰も大学なんて行っていないのよ
http://magicaldragon.blog.fc2.com/blog-entry-155.html
上の記事を転載した掲示板
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3548
実は高学歴の人ほど不幸なことが判明
バカをつくる学校で検索してみた
七つの教育方針
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ewX7tIx6930J&p=%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E5%AD%A6%E6%A0%A1&u=www.xn--l8ji6b8dbd9a6a7e0hd.com%2Farticle%2F431768646.html
バカが増えれば赤十字の何たるかにも関心をもたない〜ましてXXマネーの詐術にも
http://tamachannohimatubushi.blog.jp/archives/49182264.html
日本人が知らない日本〜みんな知っているブログ
http://thinker-japan.com/thinkwar.html
関連記事:自発的隷従論
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1070.html
3流大学のすすめ
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3513
人称別の僕〜肉体の悪魔
http://web.archive.org/web/20071228121521/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/298.html
早熟で20歳で夭折した天才ラディゲは早くから父の書斎から,マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」やラファイエット夫人の「クレーヴの奥方」を見つけだし弁証法の手法を覚え,フランス唯物論を身につけた。第一次世界大戦の混乱期に年上の既婚者マルク(マダム・ラコンブ)との愛欲を書いた「肉体の悪魔」はジェラール・フィリップ主演で映画にもなったが,このドン・ファンも36歳で夭折した。「ドルジェル伯の舞踏会」はラディゲが死んだため未完成に終わったが,その後ベルナール・グラッセ書店から出版された。
肉体の悪魔では愚かな母を皮肉を込めて描き,実際にはアンリ四世校を放校処分になったラディゲは気まずいのか,友だちのルネを退学処分にさせている。詩人のマックス・ジャコブはラディゲの才能に驚き,詩人ジャン・コクトウに詩集「燃ゆる頬」を見せるやコクトウは「一番賢明なのは詩がそれに価する時にだけ狂人になることだと」評価し「阿片」の助けをかりた。ラディゲがジャン・ケレビッチに影響を受けていたことは「死を冷静に受け止められるのは,一人でいるときに限る。二人で直面する死は,死とは言えない。たとえ神の存在を信じない者にとっても。心が痛むのは,命を断ち切ることではない。命に意義を与えているものと離れることだ」という文章からうかがい知ることが出来る。この本では最初から最後まで僕という一人称しか使っていない。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=16825 〜えいがのかいせつ
「望みをすべて叶えてしまうと(マルクとの愛欲),自分が不当な人間になっていくような気がした。.....人の心に理性にはない道理があるとすれば,それは理性が心ほど思慮深くないからだということを認めなければならない。.....ところが現実には,道徳にさえ背かずにつねに同じ型を追いかけていられるのは,愚かな者達ばかりだ」肉体の悪魔・松本百合子訳より
http://kariyatetsu.com/blog/1665.php より
最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。
「自発的隷従論」という。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、
(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。
ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。
ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。
あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。
今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。
この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。
「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。
それは、ニュートンの運動方程式
「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」
は短いがその意味は深いのと同じだ。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。
読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。
同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。
本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。
私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。
私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。
A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」
B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」
C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」
D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」
E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」
F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」
ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、
「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」
と言う事になる。
「支配されたがっている」
とでも言い換えようか。
それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。
支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。
このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。
「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。
日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。
というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。
日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。
他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。
大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。
読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。
火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。
上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。
まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。
大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。
1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。
2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。
3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。
4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。
これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。
こんな運動部に絶えず新入生が加入する。
彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。
そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。
毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。
そのしごきが厭になって止める学生もいる。
だが、運動部が廃部になることは滅多にない。
入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。
OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。
この場合の自慢は、自己満足の表明である。
下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。
そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。
本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。
野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。
何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。
運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。
一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。
彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。
いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。
何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。
日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。
日本の会社、官僚の世界も同じである。
日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。
それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。
居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。
「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。
高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。
その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。
さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。
なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。
だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。
会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。
自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。
日本の選挙は、民主主義的な物ではない。
企業、宗教団体、地方のボス、などが支配している。
例えば、企業によっては、係長や課長位の地位になると、上の方から「党費は会社が持つから自民党に入党してくれ」と言ってくることがある。
日本の会社社会では上司の言う事に叛くのは難しい。
特に、中間管理職程度に上がってしまうと、これから先の出世の事を考えざるを得なくなるから、なおのこと上からの命令に逆らえない。
言われた人間は、自民党に入党して、自分の家族の中で選挙権を持っている人間の名前も届ける。
選挙となると、自民党の候補の名前を知らされる。
自民党候補に家族も一緒に投票しろ、と言うわけである。
投票場では投票の秘密が守られているから、実際に投票する際に自民党以外の候補の名前を書いても良いのだが、日本の会社員にはそれが仲々出来ない。
態度からばれるのではないか、何か仕組みがあって他の候補者に投票したことは必ず掴まれるのではないか、と不安になる。
心配するくらいなら、決められたとおり投票しようと言うことになる。
地方に行くと、各地方ごとにボスがいる。
県会議員、市会議員、町会議員、がそれぞれその上の国会議員の派閥ごとに系列化されている。
中で、町会議員は一番小さな選挙区で活動している。
昔からその地域に住み着き、地域の住民に影響力のある人物である。
言わば、その地域のボス的存在である。
そう言う人は地域住民と日常的に接触し、住民一人一人の樣子も掴んでいる。
狭い生活範囲でお互いに顔見知りで、みんなの意向に反することをするのは良くないことだ。この地域の空気を乱すようなことをできない。みんなの空気に従おうと言う事になるのが、この日本の実情だ。
その空気は首相、大臣、国家議員、県会議員、市会議員、町会議員と順繰りに上から下に降りてきて、地域の住民を包み込む。
国会議員の選挙の場合にも、その町内のボスが自分の派閥の候補者の名前を公言する、あるいは直接、間接的にその候補者に投票するように地域の住民に伝える。
特に、地方の場合、地域のボスの力が強いから、投票場でもボスの目が光っている。投票場は秘密が守られているはずだから、ボスの指定した候補者以外の人間に投票しても良いのだが、地方では確実にそれがばれるという。
民主主義の世界で、国民にとって唯一自分の政治的要求を追求することの出来る選挙権さえ、日本では、地域のボス=権力者=支配者に、与えてしまう。自発的に隷従するのである。
もっとも、選挙に行かない人達も多い。政治に嫌気が差して政治に無関心になるのか(アパシーにおちいる)、投票したい候補者が見つからないこともある。
そして、選挙に行かない人が多いほど、ボスによる選挙支配が上手く行き保守党が勝利することになる。
かつて自民党の党首が、なるべく選挙に来ないでもらいたい、と言った。投票率が低いほど、ボスによる選挙支配が上手く行くのだ。
一体どうしてこう言うことになるのか。
ラ・ボエシは言う。
G「人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分人にだまされる場合が多いのだ。(P034)」
H「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P034)」
I「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P035)」
J「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P043)」
K「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。
だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(雁屋註:西洋の騎士が乗る馬の姿のことであろう)(044)」
L「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P044)
これを読んで、思うことは、1945年の敗戦まで、日本人を支配していた天皇制である。
明治維新の頃の日本人は、福沢諭吉の言葉を借りると、
「我が国の人民は数百年の間、天子があるのを知らず、ただこれを口伝えで知っていただけである。維新の一挙で政治の体裁は数百年前の昔に復したといっても、皇室と人民の間に深い交情(相手に対する親しみの情)がある訳ではない。その天皇と人民の関係は政治上のものだけであり、(中略)新たに皇室を慕う至情をつくり、人民を真の赤子(せきし)のようにしようとしても、今の世の人心と文明が進んだ有り様では非常に難しいことで、殆ど不可能である。(『文明論の概略 第十章』福沢諭吉全集第四巻 一八八頁)」
実際に明治政府は、各県に「人民告諭」を出して、日本には天皇がいると言うことを、人々に教えなければならなかった。
例えば、奥羽人民告諭には
「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまして・・・・・」
などと言っている。
この人民告諭は、天皇のことを一番知っているはずのお膝元の京都でも出された。
今の私達に比べて、当時の日本人は天皇に対する知識がゼロだったのである。
当然天皇を崇拝し、従うなどと言う意識は全くなかった。
象徴天皇制の現在でも、多くの人が天皇を崇拝しているが、明治の始めに、一般民衆が天皇を崇拝するなど、考えられなかった。
一体どうしてこんな違いが生まれたか。
1889年に明治政府が、「大日本帝国憲法」を決めて
「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
と天皇を絶対権力者とし、
1890年に教育勅語によって、
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(中略)
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
と命令されると、明治維新前に生まれ育ち、徳川幕府の権力の下に生きていた人達もラ・ボエシの言葉「G」、「H」の言う通りに、天皇の権力の支配を喜んで受け、その子供たち、孫たち、1945年の敗戦以前に生まれた人間は、ラ・ボエシの言葉、「I」、「J」、「K」の言うとおり、習慣として天皇制の軛につながれていたのである。
軍国時代になると、人々は天皇(と天皇を担ぐ政府)に自発的隷従をして、抵抗もせず勇んで兵士となり、死んで行ったのだ。
当時の新聞や雑誌、出版物を読むと寒々として、しまいに恐ろしくなる。
天皇に忠誠を誓う奴隷、自発的隷従者の言葉で満ちあふれているからである。
昭和天皇は敗戦後、戦犯として訴追されることを免れた。天皇服を着て白馬に乗って軍隊を閲兵した大元帥で、日本全軍を率いて敗戦前は具体的に戦争の指示まで出していたのに、突然白衣を着て顕微鏡をのぞく実直な科学者に変身し、実は平和を愛する人間だったいうあっけにとられるようなジョークがまかり通り、人間天皇、象徴天皇として、存在し続けたために、人々が天皇に自発的隷従をする習慣は簡単に消え去らなかった。
自民党の国会議員が「教育勅語を学校で教えるべきだ」などと言ったり、山本太郎議員が、園遊会で天皇に手紙を渡したことを、不敬だなどと騒ぐのも、その習慣がいまだに伝わっているからだろう。
日本の天皇制は、自発的隷従の典型である。
そして、天皇に自発的に隷従する習慣は、いまだに日本人の心理の底流に流れていて、その隷従の習慣を誇りに思う人が少なくないのである。
昭和天皇が亡くなったときの騒ぎは忘れられない。
繁華街の火は消え、祝い事はとりやめ、何事も「自粛、自粛」の言葉に押え付けられた。
テレビのバラエティー番組に、有名なテレビタレントが、なにを勘違いしたのか喪服を着て現れたのを見て私は心底驚いた。
あの時の日本社会を表現するなら、日本人の心理に植え付けられていたがとっくに黄泉の世界に送り込まれていたはずの「自発的隷従」の「習慣」が昭和天皇の死をきっかけに一気に黄泉の世界からこの地上に湧き出した、と言う事になるだろう。
私は天皇制から自由にならない限り、日本は、韓国、中国、台湾を始め、マレーシア、シンガポール、香港、などの東南アジアの国々と真の友好を結ぶことができないとおもう。
戦争責任の話になると、誰が命令したのかというと軍の責任になり、では軍の最高責任者は誰かというと天皇になる。
日本人は、天皇の責任を問うことは出来ない、と言うから、けっきょく末端の戦争責任も問えないことになる。
謝罪するとなると、天皇にまでその謝罪行為が及ぶ。だから、それがいやさに日本は、韓国や中国に謝罪できず、強弁してますます韓国や中国との関係を悪くする一方である。
もっとも現行憲法下天皇に政治的行為は出来ないから、日本の政治の最高責任者である総理大臣が、昭和天皇の分もきちんと謝罪をするべきである。
きちんとした謝罪をしない限り、韓国、中国との、全く不毛な争いはやまないだろう。責任は、百パーセント、日本にある。
日本の権力者たちは誰なのかはっきりしない。
アメリカなら、軍産複合体の指導者達、金融界の大物たち、宗教界の大物たちで有るとはっきり分かるが、日本の場合、我々一般の人間にははっきりしないから困る。
安倍首相は、その権力者たちの意に従って動いているだけだろう。
日本の、自発的隷従は根が深いのである。
では、この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。
ラ・ボエシは書いている。
M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」
N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」
そうなのだ。
問題は次の二つだ。
「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」
「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」
この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。
ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。
O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048))
P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」
Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」
確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。
その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。
だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。
だが、そうするとどうなるか。
周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。
偏屈だと言われる、へそ曲がりだと言われる、自分勝手だと言われる、他の人が我慢しているのにどうしてあなただけ我慢できないのと言われる、変わり者だと言われる、ひねくれていると言われる、政治的に偏向していると言われる、あなたには出来るかも知れないが他の人は出来ないんだよ、自分だけがいい気になるな。
隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。
(上に上げた言葉は、私が実際に色々な機会に言われた言葉である)
他方、隷従を要求している側から見れば、排除するか、痛めつけるか、どちらかを選択するだろう。
隷従を続けて生きて行くか、自由を求めるか、それは個人の意志の問題だ。
自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。
最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。
R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた 。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」
最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。
16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。
内容紹介
圧制は、支配される側の自発的な隷従によって永続する――
支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。20世紀の代表的な関連論考を併録。
出版社からのコメント
いつの世にも圧政がはびこり、人々が隷従に甘んじているのはなぜか――
16世紀フランスの若き俊秀による稀有の考察は、支配・被支配の社会関係にひそむ
本質的構造を容赦なく喝破して世を震撼させた。
圧政は、支配者のおこぼれに与るとりまき連中が支え、民衆の自発的な隷従によって
完成する、という鮮やかな分析は、近・現代の思想にも大きな影響を与えている。
シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20 世紀の全体主義について論じた小論と、政治人
類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開
社会を分析した論考を併録する。
解説 西谷 修
内容(「BOOK」データベースより)
なぜみずから屈し圧政を支えるのか。支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20世紀の全体主義について論じた小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。
著者について
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
1530‐63年。フランスの小都サルラ生まれ。オルレアン大学で法学とともに人文学への造詣を深める。54年にボルドー高等法院に評定官として着任、のちに同僚となるモンテーニュと友情を結ぶ。相次ぐ宗教争乱に対して事態収拾に奔走したが、63年病に倒れモンテーニュに看取られながら死去。『自発的隷従論』は16歳か18歳のときに書き上げたとされる。
西谷 修
東京外国語大学教授。著書に『世界史の臨界』『不死のワンダーランド』『戦争論』『理性の探究』などが、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』などがある。
山上浩嗣
大阪大学准教授。著書Pascal et la vie terrestre(『パスカルと地上の生』)などが、訳書に『ブローデル歴史集成』I~III(共訳)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ド・ラ・ボエシ,エティエンヌ
1530‐63年。フランスの小都サルラ生まれ。早くにオルレアン大学に進学、法学とともに人文学への造詣を深める。54年にボルドー高等法院に評定官として着任、のちに同僚となるモンテーニュと友情を結ぶ。相次ぐ宗教争乱に対して、宮廷の宥和政策を支持して事態収拾に奔走したが、63年病に倒れモンテーニュに看取られながら世を去った
西谷/修
1950年愛知県生まれ。東京外国語大学教授
山上/浩嗣
1966年大阪府生まれ。大阪大学准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
トップカスタマーレビュー
5つ星のうち 4.0
恐るべき名著! (だが西谷氏の解説が蛇足なのでー1点) 投稿者 安冨歩 投稿日 2014/2/14
形式: 文庫
こんな凄い論文が16世紀に、しかも十代の少年によって書かれていたとは。。。
人間社会の隷従と圧政とのポジティブフィードバック機構が、明瞭に示されている。人間が自ら自由を放棄するのは「慣習」による。「国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。」
ラ・ボエシは、「哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの悪にしがみつき、善には盲目な人々よ!」「その敵がもつ特権とは言えば・・・あなたがた自身が彼に授けたものにほかならないのだ。」(21-2頁)と明言している。「自発的隷従」は、「愚かな民衆」の態度のことで、これが「圧政」を維持する「薪」となるのだ。明らかに民衆こそは圧政の共犯者である。共犯者であるがゆえに、共犯をやめれば圧政もなくなる、と説くのである。これはガンディーの非暴力不服従闘争の理論の完全な先駆である。
更に圧政者に盲従する「小圧政者」の豊かでみじめな生活ぶりも的確に描かれている。この部分は、私の『東大話法』をめぐる一連の著作のまぎれもない先駆で、知らなかったことを恥じる。山上氏は、この難しい古いフランス語をわかりやすく訳すという偉業を成し遂げたが、それには十数年もかかったという。
一方、「監修者」の西谷修氏の「解説」は、まったく違った議論をしている。
彼によれば「小圧政者」の態度が「自発的隷従」だという。そして「その底辺には、圧政を被り物心両面で収奪されるばかりの無数の人々が置かれている」として、一方的に収奪されている「民衆」を想定する。圧政者はパンとサーカスとで彼らを慰撫して気を逸らさせるので、民衆も支配の継続を望むようになるという。つまり、「圧政者⇔小圧政者」関係(=自発的隷従)と、「圧政者・小圧制者⇔民衆」関係(慰撫)という二段構えになっている。これでは、民衆が不服従を貫いたところで、圧政はなくならない。「一斉蜂起」かなにかがないと、体制は崩壊しない。
西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?
コメント 97人中85人のお客様がこれが役に立ったと考えています。. このレビューは参考になりましたか?
5つ星のうち 5.0
重層的な読書へといざなう、まさに「古典」の翻訳書 投稿者 KTFN 投稿日 2014/2/24
形式: 文庫
本書は、ラ・ボエシのテキスト本文の翻訳のほかに、訳者による解題と解説者による解説に挟まれる形で、このテキストに触発されて20世紀になって書かれた2本の「付論」――哲学者シモーヌ・ヴェイユと人類学者ピエール・クラストルによるもの。どちらも執筆年がはっきりしないが、どこかに書かれているのかな?――を収録している(さらには「訳者あとがき」も)。
ラ・ボエシの訳文には、すでに訳者による詳細かつ堅実な注が豊富に施されているから、この本は非常に多声的な構成になっていると言える。
そしてこの本を読み終えた人は、あくまでもラ・ボエシその人とテキストに寄り添い、その声を忠実に聴き取ろういう訳者の態度と、このテキストを可能性の中心において最大限に「活用」しようという解説者の意志のあいだで鳴り響くさまざまな声の余韻に浸りながら、さて自分はそこに向かってどんな声を発するのかと問われることになる。
この重層性こそ「古典」の翻訳、「古典」の読書であろう。このような本が出版され、そしてよく売れている(ように見える)ことには希望を感じる。そしてそれを実現した訳者の努力には心から敬意を表したい。
コメント 31人中27人のお客様がこれが役に立ったと考えています。. このレビューは参考になりましたか?
5つ星のうち 5.0
早熟の天才が400年前に見抜いた、1%の権力者が残り99%の人間を支配するメカニズム投稿者 つくしん坊 トップ500レビュアー 投稿日 2014/4/6
形式: 文庫
驚くべき本である。16世紀のフランスに生きた、高等法院の若き評定官にして天才的な思想家である著者は、400年後にも十分通用する、1%の権力者(とその取り巻き)が残り99%の人間を支配するメカニズムを見抜いていた! 権力者が暴力で人民を支配する、というのであれば珍しくもない理論である(歴史上も現在も、実際にそのような国や組織は少なくない)。しかし、著者ラ・ボエシの慧眼は、たとえ権力者が非力であっても、被支配者が自主的に隷従している例がしばしばあることを発見したことであろう。このことにより、たとえ見掛けは「民主的」あるいは「宥和的」な権力者であっても、やり方によっては、被支配者を統治することは容易となる。こうして、ラ・ボエシの理論は、日本を含む、現代の「先進国」やその中の組織の支配メカニズムにまで射程を伸ばしているのである。
ラ・ボエシは、圧制者が、人民を自主的に隷従させるメカニズムとして、次の4つを掲げている(p.52-62)。いずれも、日本を含む古今東西の国々や組織で、日常的に観察できる。
(1)遊戯(芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士など。現代ではお笑いタレントが溢れるテレビ、オリンピックを含むスポーツ)、(2)饗応(権力者による買収。現代日本でも政治家や原子力ムラの常套手段)、(3)称号(各種の金で買える名誉職、勲章)、(4)自己演出(...続きを読む ?
コメント 39人中31人のお客様がこれが役に立ったと考えています。. このレビューは参考になりましたか?
5つ星のうち 4.0
フランスの古典が警告する?投稿者 labamba 投稿日 2015/7/6
形式: 文庫 Amazonで購入
500年も前の、しかもフランスの文人が書いた小著。しかし、そこにあるのは、歴史的まれにみる傲慢さと不誠実さで立憲主義・民主主義を踏みにじる安倍晋三政権に、なぜか自発的に隷従させられてしまっている日本の現状。良心ある進歩的日本人必読の古典だ。
IS兵士を捕らえてみればイスラエルの大佐だった
http://www.mag2.com/p/money/6712
例えばハマスの記事は以下の二番目「灯りを消してくれ」にあります
http://megalodon.jp/2009-0127-2250-01/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/
被害演出には二つのタイプがある
http://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/2a9a3c6f3808fe93b8f83f1600f97fee
以下のビデオはレーニン流プロパガンダですから注意
https://www.youtube.com/watch?v=pLlwpZQrQUU
それはアレックス・ジョーンズやデビッド・アイクなどが使っている手口
http://www.whale.to/b/alex_jones.html
彼らはロン・ポールなどもそうなのですがControlled Oppositionと言われています。タマちゃんのところにあります
http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-13336.html
彼らをControlしているのはタビストックなのです
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1115.html
日本は核兵器の存在をどこまで知っていたのか
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3549
この国を売る決意
http://web.archive.org/web/20080208213243/homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/abe_shinzo.html
私はこの国を許さないで検索するると
Pls make a Donation
2
2015/11/3
「おお,ありとあらゆる治世の,ありとあらゆる国家の殺戮者よ,投獄者よ,馬鹿者よ,いつになったら君達は,人間を閉じ込め死なせる技術よりも,人間を知る技術を尊重するようになるのだろう!」「悪徳の栄え」訳者
内容紹介
圧制は、支配される側の自発的な隷従によって永続する――
支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。20世紀の代表的な関連論考を併録。
出版社からのコメント
いつの世にも圧政がはびこり、人々が隷従に甘んじているのはなぜか――
16世紀フランスの若き俊秀による稀有の考察は、支配・被支配の社会関係にひそむ本質的構造を容赦なく喝破して世を震撼させた。
圧政は、支配者のおこぼれに与るとりまき連中が支え、民衆の自発的な隷従によって完成する、という鮮やかな分析は、近・現代の思想にも大きな影響を与えている。
シモーヌ・ヴェイユ が本作と重ねて20 世紀の全体主義について論じた小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。
解説 西谷 修
内容(「BOOK」データベースより)
なぜみずから屈し圧政を支えるのか。支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20世紀の全体主義について論じた小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。
著者について
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ
1530‐63年。フランスの小都サルラ生まれ。オルレアン大学で法学とともに人文学への造詣を深める。54年にボルドー高等法院に評定官として着任、のちに同僚となるモンテーニュと友情を結ぶ。相次ぐ宗教争乱に対して事態収拾に奔走したが、63年病に倒れモンテーニュに看取られながら死去。『自発的隷従論』は16歳か18歳のときに書き上げたとされる。
西谷 修
東京外国語大学教授。著書に『世界史の臨界』『不死のワンダーランド』『戦争論』『理性の探究』などが、訳書にブランショ『明かしえぬ共同体』、レヴィナス『実存から実存者へ』などがある。
山上浩嗣
大阪大学准教授。著書Pascal et la vie terrestre(『パスカルと地上の生』)などが、訳書に『ブローデル歴史集成』I~III(共訳)などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ド・ラ・ボエシ,エティエンヌ
1530‐63年。フランスの小都サルラ生まれ。早くにオルレアン大学に進学、法学とともに人文学への造詣を深める。54年にボルドー高等法院に評定官として着任、のちに同僚となるモンテーニュと友情を結ぶ。相次ぐ宗教争乱に対して、宮廷の宥和政策を支持して事態収拾に奔走したが、63年病に倒れモンテーニュに看取られながら世を去った
西谷/修
1950年愛知県生まれ。東京外国語大学教授
山上/浩嗣
1966年大阪府生まれ。大阪大学准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
関連記事としてこの本の紹介がありました
http://sekaitabi.com/servant2.html
内容紹介
なぜ戦後70年たっても、米軍が首都圏上空を支配しているのか。
なぜ人類史上最悪の事故を起こした日本が、原発を止められないのか。
なぜ被曝した子どもたちの健康被害が、見て見ぬふりされてしまうのか。
だれもがおかしいと思いながら、止められない。
日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは?
大ヒットシリーズ「〈戦後再発見〉双書」の企画&編集総責任者が放つ、「戦後日本」の真実の歴史。
公文書によって次々と明らかになる、驚くべき日本の歪んだ現状。
精緻な構造分析によって、その原因を探り、解決策を明らかにする!
<目次>
PART1 沖縄の謎――基地と憲法
PART2 福島の謎――日本はなぜ、原発を止められないのか
PART3 安保村の謎(1)――昭和天皇と日本国憲法
PART4 安保村の謎(2)――国連憲章と第2次大戦後の世界
PART5 最後の謎――自発的隷従とその歴史的起源
内容(「BOOK」データベースより)
なぜ、戦後70年たっても、米軍が首都圏上空を支配しているのか?なぜ、人類史上最悪の原発事故を起こした日本が、再稼働に踏みきろうとするのか?なぜ、被爆した子どもの健康被害が、見て見ぬふりをされてしまうのか?なぜ、日本の首相は絶対に公約を守れないのか?だれもがおかしいと思いながら、止められない。日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは?
Part5の最後の謎は明治時代の外交官アーネスト・サトウの言った通り〜そういえばPART5は二人の著者のパクリくさい!!
アーネスト・サトウの関連記事は〜エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの本のパクリか?
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/229.html
VIDEO
宦官って知っていましたか?
ENUCHをEUNUCH(宦官)としたパウロ
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/642.html
コロサイの信徒への手紙でグノーシス主義の異端に攻撃されていることを嘆き(注:原始キリスト教を異端扱いしている),エノクを宦官(去勢された人の意味)とすることによって表の舞台から消し去った(エチオピアがアダムとイブの舞台であることも含めて)。これによってパウロはキリスト教のスターとなった。木村喜一氏の著作にもこの指摘はないし,ありとあらゆる聖書の書評にENUCHをEUNUCHと改竄したいやらしさを批判した文章はない。
ETHIOPIANS.......COME TO JERUSALEM FOR TO WORSHIP
Now an angel of the Lord said to Philip,"Go south to the road-the desert road-that goes down from Jerusalem to Gaza.So he started out,and on his way he met an Ethiopian eunuch,an important official in charge of all the teasury of Candace,Queen of the Ethiopians......
さて,主の天使はフィリポに,「ここをたって南に向かい,エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から,エチオピアの女王カンダケの高官で,女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官(注:去勢された意味)が,エルサレムに礼拝に来て,帰る途中であった。<使徒言行録8:26〜28>
Book of Ethiopian Enuch(エチピア語エノク書)は偽典とされたが,あくまでEnuch をEunuch(宦官=去勢された高官)として位置づけている。第一エノク書,第二エノク書はキリスト教の正典であったが偽典とされた。それによってすべてダヴィデ崇拝に取って代わってしまった。ダヴィデの曽祖父ポアズは異邦人のモアブの女ルツからダヴィデの祖父オべテをもうけた。
雁屋哲の今日もまた
http://kariyatetsu.com/blog/1665.php
2014-03-03
自発的隷従論
最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。
「自発的隷従論」という。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、
(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。
ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。
ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。
あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。
今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。
この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。
「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。
それは、ニュートンの運動方程式
「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」
は短いがその意味は深いのと同じだ。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。
読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。
同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。
本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。
私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。
私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。
A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」
B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」
C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」
D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」
E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」
F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」
ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、
「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」
と言う事になる。
「支配されたがっている」
とでも言い換えようか。
それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。
支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。
このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。
ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。
「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。
日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。
というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。
日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。
他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。
大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。
読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。
火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。
上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。
まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。
大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。
1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。
2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。
3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。
4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。
これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。
こんな運動部に絶えず新入生が加入する。
彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。
そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。
毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。
そのしごきが厭になって止める学生もいる。
だが、運動部が廃部になることは滅多にない。
入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。
OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。
この場合の自慢は、自己満足の表明である。
下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。
そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。
本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。
野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。
何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。
運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。
一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。
彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。
いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。
何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。
日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。
日本の会社、官僚の世界も同じである。
日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。
それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。
居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。
「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。
高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。
その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。
さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。
なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。
だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。
会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。
自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。
日本の選挙は、民主主義的な物ではない。
企業、宗教団体、地方のボス、などが支配している。
例えば、企業によっては、係長や課長位の地位になると、上の方から「党費は会社が持つから自民党に入党してくれ」と言ってくることがある。
日本の会社社会では上司の言う事に叛くのは難しい。
特に、中間管理職程度に上がってしまうと、これから先の出世の事を考えざるを得なくなるから、なおのこと上からの命令に逆らえない。
言われた人間は、自民党に入党して、自分の家族の中で選挙権を持っている人間の名前も届ける。
選挙となると、自民党の候補の名前を知らされる。
自民党候補に家族も一緒に投票しろ、と言うわけである。
投票場では投票の秘密が守られているから、実際に投票する際に自民党以外の候補の名前を書いても良いのだが、日本の会社員にはそれが仲々出来ない。
態度からばれるのではないか、何か仕組みがあって他の候補者に投票したことは必ず掴まれるのではないか、と不安になる。
心配するくらいなら、決められたとおり投票しようと言うことになる。
地方に行くと、各地方ごとにボスがいる。
県会議員、市会議員、町会議員、がそれぞれその上の国会議員の派閥ごとに系列化されている。
中で、町会議員は一番小さな選挙区で活動している。
昔からその地域に住み着き、地域の住民に影響力のある人物である。
言わば、その地域のボス的存在である。
そう言う人は地域住民と日常的に接触し、住民一人一人の樣子も掴んでいる。
狭い生活範囲でお互いに顔見知りで、みんなの意向に反することをするのは良くないことだ。この地域の空気を乱すようなことをできない。みんなの空気に従おうと言う事になるのが、この日本の実情だ。
その空気は首相、大臣、国家議員、県会議員、市会議員、町会議員と順繰りに上から下に降りてきて、地域の住民を包み込む。
国会議員の選挙の場合にも、その町内のボスが自分の派閥の候補者の名前を公言する、あるいは直接、間接的にその候補者に投票するように地域の住民に伝える。
特に、地方の場合、地域のボスの力が強いから、投票場でもボスの目が光っている。投票場は秘密が守られているはずだから、ボスの指定した候補者以外の人間に投票しても良いのだが、地方では確実にそれがばれるという。
民主主義の世界で、国民にとって唯一自分の政治的要求を追求することの出来る選挙権さえ、日本では、地域のボス=権力者=支配者に、与えてしまう。自発的に隷従するのである。
もっとも、選挙に行かない人達も多い。政治に嫌気が差して政治に無関心になるのか(アパシーにおちいる)、投票したい候補者が見つからないこともある。
そして、選挙に行かない人が多いほど、ボスによる選挙支配が上手く行き保守党が勝利することになる。
かつて自民党の党首が、なるべく選挙に来ないでもらいたい、と言った。投票率が低いほど、ボスによる選挙支配が上手く行くのだ。
一体どうしてこう言うことになるのか。
ラ・ボエシは言う。
G「人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分人にだまされる場合が多いのだ。(P034)」
H「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P034)」
I「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P035)」
J「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P043)」
K「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。
だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(雁屋註:西洋の騎士が乗る馬の姿のことであろう)(044)」
L「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P044)
これを読んで、思うことは、1945年の敗戦まで、日本人を支配していた天皇制である。
明治維新の頃の日本人は、福沢諭吉の言葉を借りると、
「我が国の人民は数百年の間、天子があるのを知らず、ただこれを口伝えで知っていただけである。維新の一挙で政治の体裁は数百年前の昔に復したといっても、皇室と人民の間に深い交情(相手に対する親しみの情)がある訳ではない。その天皇と人民の関係は政治上のものだけであり、(中略)新たに皇室を慕う至情をつくり、人民を真の赤子(せきし)のようにしようとしても、今の世の人心と文明が進んだ有り様では非常に難しいことで、殆ど不可能である。(『文明論の概略 第十章』福沢諭吉全集第四巻 一八八頁)」
実際に明治政府は、各県に「人民告諭」を出して、日本には天皇がいると言うことを、人々に教えなければならなかった。
例えば、奥羽人民告諭には
「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまして・・・・・」
などと言っている。
この人民告諭は、天皇のことを一番知っているはずのお膝元の京都でも出された。
今の私達に比べて、当時の日本人は天皇に対する知識がゼロだったのである。
当然天皇を崇拝し、従うなどと言う意識は全くなかった。
象徴天皇制の現在でも、多くの人が天皇を崇拝しているが、明治の始めに、一般民衆が天皇を崇拝するなど、考えられなかった。
一体どうしてこんな違いが生まれたか。
1889年に明治政府が、「大日本帝国憲法」を決めて
「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
と天皇を絶対権力者とし、
1890年に教育勅語によって、
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(中略)
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
と命令されると、明治維新前に生まれ育ち、徳川幕府の権力の下に生きていた人達もラ・ボエシの言葉「G」、「H」の言う通りに、天皇の権力の支配を喜んで受け、その子供たち、孫たち、1945年の敗戦以前に生まれた人間は、ラ・ボエシの言葉、「I」、「J」、「K」の言うとおり、習慣として天皇制の軛につながれていたのである。
軍国時代になると、人々は天皇(と天皇を担ぐ政府)に自発的隷従をして、抵抗もせず勇んで兵士となり、死んで行ったのだ。
当時の新聞や雑誌、出版物を読むと寒々として、しまいに恐ろしくなる。
天皇に忠誠を誓う奴隷、自発的隷従者の言葉で満ちあふれているからである。
昭和天皇は敗戦後、戦犯として訴追されることを免れた。天皇服を着て白馬に乗って軍隊を閲兵した大元帥で、日本全軍を率いて敗戦前は具体的に戦争の指示まで出していたのに、突然白衣を着て顕微鏡をのぞく実直な科学者に変身し、実は平和を愛する人間だったいうあっけにとられるようなジョークがまかり通り、人間天皇、象徴天皇として、存在し続けたために、人々が天皇に自発的隷従をする習慣は簡単に消え去らなかった。
自民党の国会議員が「教育勅語を学校で教えるべきだ」などと言ったり、山本太郎議員が、園遊会で天皇に手紙を渡したことを、不敬だなどと騒ぐのも、その習慣がいまだに伝わっているからだろう。
日本の天皇制は、自発的隷従の典型である。
そして、天皇に自発的に隷従する習慣は、いまだに日本人の心理の底流に流れていて、その隷従の習慣を誇りに思う人が少なくないのである。
昭和天皇が亡くなったときの騒ぎは忘れられない。
繁華街の火は消え、祝い事はとりやめ、何事も「自粛、自粛」の言葉に押え付けられた。
テレビのバラエティー番組に、有名なテレビタレントが、なにを勘違いしたのか喪服を着て現れたのを見て私は心底驚いた。
あの時の日本社会を表現するなら、日本人の心理に植え付けられていたがとっくに黄泉の世界に送り込まれていたはずの「自発的隷従」の「習慣」が昭和天皇の死をきっかけに一気に黄泉の世界からこの地上に湧き出した、と言う事になるだろう。
私は天皇制から自由にならない限り、日本は、韓国、中国、台湾を始め、マレーシア、シンガポール、香港、などの東南アジアの国々と真の友好を結ぶことができないとおもう。
戦争責任の話になると、誰が命令したのかというと軍の責任になり、では軍の最高責任者は誰かというと天皇になる。
日本人は、天皇の責任を問うことは出来ない、と言うから、けっきょく末端の戦争責任も問えないことになる。
謝罪するとなると、天皇にまでその謝罪行為が及ぶ。だから、それがいやさに日本は、韓国や中国に謝罪できず、強弁してますます韓国や中国との関係を悪くする一方である。
もっとも現行憲法下天皇に政治的行為は出来ないから、日本の政治の最高責任者である総理大臣が、昭和天皇の分もきちんと謝罪をするべきである。
きちんとした謝罪をしない限り、韓国、中国との、全く不毛な争いはやまないだろう。責任は、百パーセント、日本にある。
日本の権力者たちは誰なのかはっきりしない。
アメリカなら、軍産複合体の指導者達、金融界の大物たち、宗教界の大物たちで有るとはっきり分かるが、日本の場合、我々一般の人間にははっきりしないから困る。
安倍首相は、その権力者たちの意に従って動いているだけだろう。
日本の、自発的隷従は根が深いのである。
では、この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。
ラ・ボエシは書いている。
M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」
N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」
そうなのだ。
問題は次の二つだ。
「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」
「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」
この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。
ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。
O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048))
P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」
Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」
確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。
その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。
だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。
だが、そうするとどうなるか。
周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。
偏屈だと言われる、へそ曲がりだと言われる、自分勝手だと言われる、他の人が我慢しているのにどうしてあなただけ我慢できないのと言われる、変わり者だと言われる、ひねくれていると言われる、政治的に偏向していると言われる、あなたには出来るかも知れないが他の人は出来ないんだよ、自分だけがいい気になるな。
隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。
(上に上げた言葉は、私が実際に色々な機会に言われた言葉である)
他方、隷従を要求している側から見れば、排除するか、痛めつけるか、どちらかを選択するだろう。
隷従を続けて生きて行くか、自由を求めるか、それは個人の意志の問題だ。
自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。
最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。
R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」
最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。
16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。
人称別の僕〜肉体の悪魔
http://web.archive.org/web/20071228121521/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/298.html
早熟で20歳で夭折した天才は早くから父の書斎から,マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」やラファイエット夫人の「クレーヴの奥方」を見つけだし弁証法の手法を覚え,フランス唯物論を身につけた。第一次世界大戦の混乱期に年上の既婚者マルク(マダム・ラコンブ)との愛欲を書いた「肉体の悪魔」はジェラール・フィリップ主演で映画にもなったが,このドン・ファンも36歳で夭折した。「ドルジェル伯の舞踏会」はラディゲが死んだため未完成に終わったが,その後ベルナール・グラッセ書店から出版された。
肉体の悪魔では愚かな母を皮肉を込めて描き,実際にはアンリ四世校を放校処分になったラディゲは気まずいのか,友だちのルネを退学処分にさせている。詩人のマックス・ジャコブはラディゲの才能に驚き,詩人ジャン・コクトウに詩集「燃ゆる頬」を見せるやコクトウは「一番賢明なのは詩がそれに価する時にだけ狂人になることだと」評価し「阿片」の助けをかりた。ラディゲがジャン・ケレビッチに影響を受けていたことは「死を冷静に受け止められるのは,一人でいるときに限る。二人で直面する死は,死とは言えない。たとえ神の存在を信じない者にとっても。心が痛むのは,命を断ち切ることではない。命に意義を与えているものと離れることだ」という文章からうかがい知ることが出来る。この本では最初から最後まで僕という一人称しか使っていない。
「望みをすべて叶えてしまうと(マルクとの愛欲),自分が不当な人間になっていくような気がした。.....人の心に理性にはない道理があるとすれば,それは理性が心ほど思慮深くないからだということを認めなければならない。.....ところが現実には,道徳にさえ背かずにつねに同じ型を追いかけていられるのは,愚かな者達ばかりだ」肉体の悪魔・松本百合子訳より
神は生成の誤謬を理解し,なお自制心を失わない者を極端に嫌う傾向がある。それによって発狂した者には微笑みかける。しかし神も自制心を失いかける時もある。背教者ユリアヌスがミトナ教を愛したときのような場合だ。
『ヤーウエと蛇の遭遇の後に起こるアダムとイブの追放は,人間の堕落にほかならず,新約聖書におけるキリストの受難は人間の救済にほかならない。どの場合も物語りは完全な陰の状態からはじまる。ファウストは知識において完全であり,ヨブは善行と幸運において完全であり,アダムとイブは罪のなさと安楽さにおいて完全である。しかし,陰から陽に移行させる場合,もう一人の役者が必要になる。苦悩や不安や恐怖や反感を注入する敵を登場させなければならない。』これが蛇の役割 であり対立物の統一という弁証法...............これが分かれば自殺なんてしなくてもいいのですよ。管理人の長い間の苦悩はこれで解決できたのです。
肉体の悪魔の映画のシーンから。ジェラール・フィリップの僕とマルク
悪徳の栄え〜よい子は閲覧禁止
http://web.archive.org/web/20071228222832/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/151.html
マルキ・ド・サドはダリによって蘇った。
http://web.archive.org/web/20071228222812/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/133.html
アメリカ炎上 その1〜その5まで.....CDはかつて無料で配布しましたのでもうありません
http://web.archive.org/web/20071220103458/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/717.html
2.3兆ドルがペンタゴンから消えた〜それはレオ・ワンタが中国人民銀行から送金した金がFRB議長の秘密コードでニューヨークにある銀行のETAL口座に迂回送金されたものの一部。
http://web.archive.org/web/20121222213148/http://www.youtube.com/watch?v=xU4GdHLUHwU&mode=related&search=
All About Leo Wanta
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/424.html
イルミナティの仕組み
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/12.html
2
2012/2/12
ロンドン郊外Aylesburyにある故フェルディナンド・ジェームズ・ロスチャイルド 男爵所有のWADDESDON MANOR。この人たちは一ドルたりともまともな手法で稼いだことはない。税金は払っているんでしょうか?答え........ほ〜んのわずかだけね。日本語で雀の涙って言葉があるでしょ(笑)。
初代アンセルム・ロスチャイルドは徹底的に下手に出て信用を勝ち取りウイルヘルム9世から300万ドルを掠め取った(ここをクリック)。 これがロスチャイルド家の始まりで英国支店のネイサン・ロスチャイルド は「ワーテルローの戦い」に乗じてその軍資金をたった一日で2500倍に増やした。
終わりの始まり.....そして永遠
マーク・ゲイン・日本日記 ......
.と大安くらぶ ........とRAA。
千代田遊郭
パレ・ロワイヤル
オルレアン公=大室寅之祐
RAAからパンパンへ
肉体の門
パッポンものがたり
シオン長老の第一議定書
......飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物どもを見よ。自由が彼らに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それはわれわれやわれわれ一族の歩む道ではない。ゴイムはアルコール飲料に酔いしれ、彼らの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長する。その性的堕落は、われわれの特別な代理人・・富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしばゴイムの娯楽場にいるわれらの女性たちによって手ほどきされた。彼ら代理人の最後に、私は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておく......
投稿者:ドラドラ
2012/2/12 16:43
税理士合格者数は年間2000人→1000人以下へ。
国税庁出身には年間3000万円の顧問企業斡旋が年間300人程度に。
http://www.777money.com/torivia/zeirishi_ura.htm
しかしそれも無くなった。
http://bb-tax.net/category/1553337.html
4、あっせん廃止
これはコメント投稿からです。おそらく引用URLの内容は上の本の著者「大村大次郎」氏のものからと思われます。
大物になりますと大会社のトップに.....
http://www.777money.com/torivia/zeirishi_ura.htm をクリックしますと......
『税理士業界の裏話 〜国税局OB税理士の存在
平均年収900万円超!金持ち職業の代表格と世間で思われている”税理士”に、二通りの人種が居る事をご存知でしょうか?
独立して事務所を構えている開業税理士には「試験合格組税理士」と「国税局OBの天下り組税理士」の、二通りの人種が存在します 。全国の約6万5千人の税理士の内、ほぼ半々の比率だそうです。
当然ながら、一般的に”税理士を目指す”ということは「試験合格組」を目指すことになります。国家資格の中でも、公認会計士や司法試験等に次ぐ超難関資格で、合格するまでに数年を費やす人もいる位です。試験合格組税理士の悲劇 〜仕事(収入)少ない・・・
ですが、この「試験合格組」の税理士と言うのが、苦労の割にはまるで儲からないのだそうです。というのも、「国税局天下り組」の税理士を顧問にする企業には、税務調査に入られにくいという、すさまじいメリットがあるからです。
国税局(税務署)で23年仕事を続ければ、無条件で税理士資格が得られます。税金を徴収する側の人間が、ある日突然、徴収される側の企業を顧問・支援する立場に変わるのは明らかにいびつですよね。しかし日本では「税務署職員にしんどい仕事を続けてもらう為のエサ」として、この不可解な特権制度が根付いているというのです。
しかも、税務署OBの税理士には国税局が顧問企業を斡旋するという、とんでもないことまで行われているそうです。当然、斡旋される企業には「税務調査に入られにくい」という”交換取引”が裏で行われています。企業側も、面倒な税務調査を避けたいが為に、しぶしぶながらも「国税局OB=天下り組」の税理士を顧問に迎えるのです。
こうして「天下り組」の税理士が美味しいシステムが出来上がっており、「試験合格組」の税理士は、苦労して試験に合格した割にはまるで旨みの無い仕事と化しているのです。そしてこのいびつな構造は、国税局職員や自民党税制調査会の莫大な利権が掛かっている為、改善される可能性は低いのです・・・。
税理士を目指す人は、稼げない事を覚悟した方が・・・
付け加えて、税理士の数は現在飽和状態にあります。その為、弁護士や公認会計士と兼業して、仕事の幅を広げることで稼いでいる税理士の人も多いようです。
逆にいえば、税理士の資格一本で喰っていくのは、至難の業だとも言えるでしょう。試験合格組税理士で、かつ税理士専門でやっている人は非常に生活が苦しいそうです。特に地方の場合は、そもそも顧客(会社)が少ない上に、天下り組の勢力が強い為、仕事自体が極めて少なく、中には生活保護を受けている税理士すらいるとか・・・(ホントかよ(-_-;))。』(管理人注:ホントです)
次にこれをクリックして見ましょう.....
http://bb-tax.net/category/1553337.html
OB税理士
『3、問題点その2(あっせん)
OB税理士に関して、もう一つ問題として指摘されるのが顧問先のあっせん制度です。
税務署の署長、副署長クラス、それから国税局(税務署のもうひとつ上の役所です)の幹部が定年前に
退官して税理士登録を行うと、国税庁(国税局の上の役所)から顧問先をあっせんしてもらえるのです。
もちろんあっせんしてもらえる顧問先は中小企業ではなく中堅企業、というよりも上場企業にそん色ない
クラスの大規模法人です。
国税庁では定年前に勇退してもらうので、生活を補てんするためのものだと説明します。
しかしながら元署長や元副署長が顧問税理士である会社に対して、税務署の調査が他の会社と
同じように適正に行われるのだろうかという疑問が当然に生じます。
税務署の調査官が調査に行ったら、社長の横に座っているのがお世話になった大先輩・・・
実際のところ、OB税理士を顧問に迎える会社はある程度そういった面を期待しているところがあるでしょう。
4、あっせん廃止
ところで2009年9月に民主党政権が誕生すると少し風向きが変わってきました。
もともと民主党はマニフェストに公務員の天下り廃止を強く謳っていますが、このOB税理士あっせん制度は
実質的な天下りの一形態です。
それから旧聞ですが2002年に元札幌国税局長であるOB税理士本人が 巨額脱税事件(7億円!)を
起こして逮捕された際、当時野党だった民主党は厳しくこれを追求し、その時からOB税理士制度や
あっせん制度を問題視していた様子があります。
そして2010年4月、国税庁はOB税理士への顧問先あっせん制度を廃止しました。
同庁ではこれを独自に検討した結果としていますが、おそらくは政権からかなり強いプレッシャーが
あったのでしょう。
公式なあっせんがなくなったとは言えそこは同じ釜の飯を食ってきた同志、先輩後輩のつながりで
私的なあっせんはまだ残るでしょう。とはいうもののその数が減少していく流れは動きだしたようです。
2010年7月の一部新聞報道では、同年の幹部の退職者数が激減し、勤務継続を選んだと報じています。』
以下は税務署の秘密から......
税務署員のほとんどは退官後,税理士になる。国税職員は,約21年間勤務すれば税理士の資格が得られます。税理士の資格は超難関で,司法試験の次くらいに難しいともいわれています。そのような難関の資格が国税を21年勤務すればもらえるのです。もちろんですが,高卒の職員にもです。このようなおいしい話はなかなかありません......なので,国税職員のほとんどは退職した後は税理士になります。税理士は納税者の代理人的存在であり,国税(税務署)との折衝役的な存在です。それを国税のOBがやるのですから,国税職員にとってはやはりやりにくいものです。かれらは税務署の仕事のやりかたをすべて熟知しているのです。
しかも、現役の職員にとって税理士の彼らは大先輩にあたります。それが納税者の味方,つまり自分たちの敵として対峙するわけですからたまりません。国税職員は先輩と後輩の結びつきが強い組織でもあります......(中略:この辺は恥ずかしくて引用不可).....しかも,税理士になって羽振りのいい先輩などはやたらと後輩に奢りたがります。OB税理士にご馳走になったことのない国税職員はほとんどいないと思います。少なくとも私が国税にいた頃はそうでした。もちろんご馳走になった先輩に対して,失礼な態度はとれません。
このように,国税OBは税理士は国税職員に対してかなりの影響力を持っているわけです。しかも,国税OBが元幹部だったりすると,国税局に強い影響力を持つことになります。直接の後輩が国税の中枢にいることが多いからです。国税の大物OBには職員レベルではなく,国税局や税務署までが遠慮してしまうことになります。税理士と税務職員がこのような関係で,公平な税務行政などできるはずがないのです。
......この後は国税OB税理士の圧力で調査が中止の記事が続く。
副所長以上でやめれば,年収の8割が保障される。
近年,時々批判の対象となりますが,国税の幹部は退職する時に税理士としての顧問先を斡旋してもらいます。国税庁の発表では,平成20年7月に退職した国税職員のうち402人に,顧問先の斡旋を行ったということです。そのうち,税務署長だった人が236人です。一人当たり約8件の顧問先をもらっているそうで,月額平均で約50万円です。つまり,副所長以上でやめた人は退職してからすぐに月額50万円の年金をもらえるのと同じことになります........春先になると,税務署長や副所長の顧問先を探すのが総務の重要な仕事となっています。年間三千から四千の企業が国税OBを顧問として受け入れています。
脱税請負人の殆どはOB税理士
皆さんは「脱税請負人」「脱税指南役」という言葉をご存知でしょうか?この「脱税請負人」「脱税指南役」はどのような人かよくわからない人も多いかもしれませんが,なんと彼らの多くは元国税局の幹部です......そうはいっても,ほとんどのOB税理士は脱税請負人にまでなることはありません。後輩に影響力を及ぼすといっても,あからさまに「うちの顧問先には絶対に調査をするな」などという圧力をかけるわけではありません。「手荒なことはしないでくれよ」とか「あまり取り立てるなよ」という感じで納税者の代弁をしてくれるくらいです。
しかし,中には道を踏み外してしまい,脱税請負人などになる人もいます......脱税請負人のスキームはこうです。
脱税請負人が依頼者に対し,コンサルタント料などの名目で多額の領収書を発行します。勿論それは架空であり,依頼者は額面の一部を報酬として脱税請負人に払います。そして,脱税請負人は後輩の国税幹部などをよく索制,事実上調査をさせないようにします。国税が調査をしないので,この架空取引はばれないということです。つまり,脱税の手口は「税務調査をさせない」ということに尽きます。手口が単純であるだけに,逆にいえば解決は難しくなります。国税局や税務署の中で,特定の税理士の顧問先には,暗黙のうちに調査ができないという空気ができあがっています。組織の中にいる人間にとって,それを打ち破るのは容易ではありません。
これも少し前の話ですが,元札幌国税局長が脱税容疑で逮捕される事件がありました。 国税局長といえば,全国五万の税務職員のうちに一人か二人しかなれないエリート中のエリートです。そのような人が巨額の脱税をしていたのです。彼は東京の企業の脱税事件に関与し,マスコミに嗅ぎつけられたために御用となったのですが,マスコミが嗅ぎつけなけらば見逃されていた可能性が高かったです .........脱税請負人の報酬は普通の税理士報酬などとはケタが違います。数千万円単位,下手をすると数億円の報酬を要求されます。脱税請負人というのは,どこまでも嫌な奴らなのです』
『税務署の仕事は,「公平で円滑な税務行政を行うこと」などという建前があります。しかし,現場の人間が実際に求められるのは「税金をどれだけ稼ぐか」ということです。そして,税金をたくさん稼ぐということは「追徴税をとってくる」ことなのです。税務調査に行って,課税漏れを見つけると追徴で課税をします。そして追徴で課税をする場合には課税漏れ額とは別に「加算税」というものが課せられます。これは,うっかりミスで課税漏れ額の10%,不正の場合は35%です。
この追徴税をどれだけとってくることができるかが,調査官の評価を決める指針でもあります。もし追徴税が少ない場合は,上司に怒られたり,先輩に厳しく指導されたりします.......そして追徴税の獲得は,個人個人に課せられるだけではなく,部門や税務署同士でも競い合わされています。税務署内では各部門が追徴税の多寡で競争し,また各税務署同士でも追徴税の多寡で競争をしています。そして大きな追徴税を取った調査官達は,『優秀事績』として発表され,表彰されるのです...........国税庁は,公式には「税務職員にはノルマなど課していない」といっていますが,追徴税をたくさんとってきた者が出世するという現実がありますから,事実上ノルマは存在しているといえます。』22ページ
坂口安吾の堕落論
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」
松岡正剛の堕落論
「半年のうちに世相は変わった」と始まるこのエッセイは、一夜のうちに価値観を変更させられた日本人の魂を打ったのである。
歯に衣着せずに、天皇についても書いた。「天皇制は天皇によって生み出されたものではなく、天皇はときには陰謀をおこしたこともあったものの、概して何もしておらず、その陰謀はつねに成功のためしがなく、その存在が忘れられたときに社会的に政治的に担ぎ出されてきた」という指摘だった。
天皇を冒涜する者が天皇を利用するだけだというこの見方は、敗戦直後の日本人の心に沁みわたった。むろん反発も買った。
松岡正剛の「現人神の創作者たち」
現人神(あらひとがみ) の中で山本七平は幕末の尊王思想の起源を調査した。
古代史とバビロニア
シュメールの創世記:「この世の初めに、まず天と地が双子のように生まれた」
バビロニアの創世記:「まだ上に天は名付けられず下に地がその名を呼ばれないとき」
旧約聖書:「初めに神は天と地を作りたまへり」
古事記:「天地の初めのとき」
メソポタミアの創世神話・エヌマ・エリシュ
e-nu-ma e-liš la na-bu-ú šá-ma-mu
上にある天は名づけられておらず、
šap-lish am-ma-tum šu-ma la zak-rat
下にある地にもまた名がなかった時のこと。
ZU.AB-ma reš-tu-ú za-ru-šu-un
はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。
mu-um-mu ti-amat mu-al-li-da-at gim-ri-šú-un
混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。
A.MEŠ-šú-nu iš-te-niš i-ḫi-qu-ú-šú-un
水はたがいに混ざり合っており、
gi-pa-ra la ki-is-su-ru su-sa-a la she-'u-ú
野は形がなく、湿った場所も見られなかった。
e-nu-ma DINGIR.DINGIR la šu-pu-u ma-na-ma
神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
― 『エヌマ・エリシュ』冒頭部
『かつて、蛇も、さそりも
ハイエナも、獅子も、
野生の犬も、狼も存在せず、
恐れも、恐怖もなく、
人間に敵するものはなかった。
かつて、シュブール(Subur)とハマジ(Hamazi)の国には、
王子の法によって治められる偉大なる地、シュメールと、
同じ言葉を話す人々が住んでいた。
また、ウリ(Uri:アッカドをさす)は、すべてがしかるべくあり、
マルトゥ(Martu:アムル人の国)は、安らかであった。
世界全体は、神エンリルのもとでひとつの言葉を話し、
調和のなかにあった。
そのとき、多産・豊穣の主であり、
知性の主であり、地を知悉する者であり、
神々の指導者である神エンキは、
エリドゥの主に知恵を授け、
ひとつの言葉を話す人間たちの
口から出る言葉を変えさせ、争いをもたらした。』
シュメール叙事詩「エンメルカル王とアラッタ市の領主」より。
エンメルカル王とアラッタ市の領主
シュメール・人類最古の文明135ページ
世界の七大不思議
VIDEO
古代バビロニア人は偉かった
消費税増税=企業減税の構図
食料品にまでかけるという狂気の国日本。かけないと物品税は問題があるという。フランスを見習え。食料品を除外すれば20%でも良いではないか。政治家は金で動くな!!
インドネシアのバタム島は保税加工地区になっている 。
シンガポール時代船で遊びに行きましたがね「DRINKING BAR」などの看板があったり日本語名の看板もあったりほっとしますね,こういう場所は。免税で買える。
205
1 | 《前のページ | 次のページ》