16歳8か月の愛猫ミーチェ(愛称みいみ)を2020年秋に亡くしました。
でもタイトルはこのままにして、その後の日々を綴っていこうと思います。
2022/3/5
犬猫の保護活動をしている
塩田妙玄さんという尼さんが
ブログにこう書いてらっしゃいました。

(写真:©UNICEF)
「ウクライナの防空壕にいた、
猫を大事に抱きしめていた小さな女の子は
いつまで猫といられるのだろう。
銃声が響く中、避難している人の背後から、
ずーっと聞こえていた犬の吠え声。
あの子は鎖くらいは、放してもらえただろうか。
大きな犬と車に乗っていた男性は、
犬とどこまで車で行けたのだろう
私たちは、知らなければならない。
家族もいて、家も、空調も、ふとんもあり、
食べ物は町にあふれている中で、
うちの子と暮らしている奇跡を。
うちの子を大事にできる奇跡を。
1頭の犬が死んだことを
1匹の猫が死んだことを
安全な場所で十分に泣けて、
悲しみに沈める空間があるという豊満を。」
本当にその通りだなあ。
みいみと最後まで暮らせた幸せ、
みいみを安全な家で看取れた幸せ、
みいみの死を心ゆくまで
悲しむことが出来た幸せ。
今、ウクライナの人々には
失われてしまったことばかり。
ウクライナに一日も早く、
平和が訪れますように。

15
2021/12/11
このところ急に寒くなったから
冬物をひっぱり出したせいか、
ふと気が付くと、そこここに
どこからともなく飛んでくる
ふわふわした、みいみの毛。
少し前までは見つけるたびに
悲しみで胸が締め付けられ
涙があふれていたけれど
最近は少し変わってきたかも。
涙がこみあげるのは同じだけど
今は喪失感だけが原因じゃない。
みいみの毛を見つけるたび、
わたしの妄想なのだろうけれど
こんな言葉が聞こえるようになった。
「ミイミハ、イツモソバニイルヨ」
私はうれしくて、切なくて、
ふわふわした一本の毛を
撫でたり、胸に抱きしめたり。
そして、これまた都合のいい、
勝手な妄想なのだろうけれど、
こんな言葉も心に響いてきたり。
「オカアサン、ダイスキ」
これが私の妄想じゃなくて
本当にそう思ってくれてるといいな。
みいみは、私にとって天使で
何よりも愛おしい「いのち」で
永遠に奪われることのない宝もの。
これからもずっとずっと
わたしの傍にいてくれると信じて。

16
2021/11/13
このところのわたしの日々に
決定的に「ねこ」が足りない。
みいみがいなくなってから、
日々嫌と言うほど思い知るのが
猫のいない人生の味気なさ。
だからといって、すぐに次の子、
という気にはまだなれないから
その穴をこんなモノで
埋めようと虚しい努力をしています。
これは猫の形の紅茶ティーバッグ。
パッケージがかわいいから
取っておいた頂き物だけど、
中身はもっとかわいかった。
ティーバッグになった胴体は
マグカップの熱湯に浸し、
前足が取っ手を抱え込む形。
後ろから見ると、こんなふう。
ちゃんと後ろ足もしっぽもあって
かわいすぎる演出がたまらない。
思わずネットで探してみたら、
ちゃんと
ここにありました。
他の種類のも見つけたよ。
かわいいティーバッグと
美味しい紅茶にしばし和みつつ、
私を励まそうと送ってくれた人に
改めて感謝しながら頂きました。

13
2021/10/30
今日はみいみの一周忌。
あの愛しい子がいなくなってから
もう、1年が経つなんて。
一時嵐のように荒れ狂った哀しみも
今では穏やかなものになったけど
やっぱり涙はこぼれてしまうなあ。
でもどれだけ哀しくったって、
涙がこぼれてしまったって、
あの子がくれた無条件の愛情と
幸せな時間に比べれば何でもない。
生まれてきてくれてありがとう。
私の元に来てくれてありがとう。
私と生涯を過ごしてくれてありがとう。
私を大好きでいてくれてありがとう。
私に最期を看取らせてくれてありがとう。
今も変わらず私の心の中にいて、
私の心を温めて続けてくれて、
心から、心から、ありがとう。

14
2021/10/6
バタバタしているうちに
10月になってしまいました。
ブログが1カ月半休眠状態の間に
すっかり秋めいて心地よい季節。
お天気続きで夕焼けもきれい。
でも10月末はみいみの命日。
いなくなって1年も経つんだなあ。
だから10月はこんなに美しいのに
どこかぬぐいようがなく悲しい。
みいみの抜けた穴はいまだに埋まらないし、
この先一生埋まることはないでしょう。
私は胸に開いたこの悲しい穴を
抱きしめるようにして生きていく。
たかが猫くらいで、と思う人がいても
私は何も言うつもりはない。
「たかが猫くらい」を愛した日々が
どれだけ幸福だったか知ってるから。
私の胸に開いた悲しい穴からは
愛おしい日々の思い出がこぼれてくる。
溢れんばかりに、こぼれ出てくるから。

13
2021/4/5
この間まで満開だった桜も
風が吹くたびにひらひらと散り
春もゆっくり移ろってゆく。
今年は本当に桜が早かったなあ。
愛猫を亡くしたことを話した人に
次の子は迎えないのかと聞かれた。
実は、すぐにも迎えたい気持ちと、
最期のつらかった日々を思い出して
迎えるのが怖い気持ちとが半々。
みいみだけを思っていたい気持ちと
みいみに託された愛をほかの子に
伝えたい気持ちがこれまた半々。
こういうことは気持ちに素直に、
今はまず、旅行でもしたいな。
12時間おきのインシュリン注射で
もう何年も出来ずにいたから。
今のこのコロナ禍が収まったら
ひとしきり国内外を旅行して
その後、保護猫ちゃんを迎えよう。
最期までしっかり世話するために、
成猫の方がいいかもしれない。
今はみいみのことを偲び、
行く春を惜しみながら、
日々を過ごしてゆくつもりです。

14
2021/3/1
このあたりでは日曜日以来、
うぐいすが鳴き始めました。
2羽くらいがホーホケキョと
鳴き交わすのを聞くのが
このところの朝の楽しみ。
いつの間にか3月だなあ。
先日はみいみの誕生日で、
17才になるはずだったのに。
なのに、みいみがいない。
そのことが事あるごとに
わたしの胸を締めつける。
かと思うと、何かの拍子に
ふとみいみのいた16年半は
全部夢だったんじゃないかという
不思議な感覚にとらわれたりする。
全て私の幻想じゃないかって。
亡くした父に関しては
そんな風に感じたことないのに。
どうしてそんな悲しい感覚に
なってしまうことがあるんだろう。
みいみとの幸せな16年半は
確かに、確かにあったのに。
そんな風に感じられた時は、
罪悪感と喪失感がごちゃまぜで
しばらくいたたまれなくなる。
みいみ、みいみ、みいみ、と
何度も、何度も呼びかけて
いろんな思いをぐっと飲みこむ。
みいみロスの闇はまだ深いな。

13
2021/2/10
「バカの壁」でもおなじみの
養老孟司先生が飼っていた、
18歳の「まる」が昨年末に他界。
先日、その日の先生を追った
NHKの番組を観ました。
「知の巨人」と言われる解剖学者が
愛猫の死をどうとらえるのだろうと。
いよいよ危ないとの知らせを
出張先からの車中で受けた先生は
握りしめた携帯に残るまるの写真を
何も言わずに何枚も何枚も見つめて。
一見ドライに見えたまるへの態度も
先生なりの愛情表現だったんだなあ。
番組後半で先生が語った言葉。
「猫なんて、役に立つ訳ではなくて、
迷惑をかけるだけの存在なんです。
でも、多くの人がそんな
迷惑をかけるだけの存在を
必要としているとも言える。
私もその一人でした。」
「大体うちのまるときたら動かないし、
ネズミを獲れるはずもない。
でもね、だからこそ、あれでも生きている、
それでいいんだよねって思える。
4キロちょっとの存在なのに、
そう思わせてくれました。」
「そういう存在にどれだけ
心を癒やされているのか。
これだけ飼っている人が多いのは、
役に立つか、儲かるかといった、
存在ばかりが重視される社会で、
実際の人間関係のつらさの
裏返しではないかと思う。」
そうしてまるのいない縁側を
じっと眺めておられる姿からは
寂しさが痛いほど伝わってきて
私の中の寂しさとつい共鳴し
涙がこぼれてしまったのでした。

15
2021/1/25
兵庫県にも緊急事態宣言が出て
在宅勤務はまだまだ続きそう。
ジョギング行って、仕事して、
買い物行って、ジム行って。
日々を淡々と繰り返す一方で
時々あふれそうになる寂しさ。
胸が締め付けられるような切なさ。

(前はよくひなたぼっこしてた、みいみ)
あんなに愛していたみいみを
私なりに精いっぱい愛し尽くして
丁寧にお返しできたのだから
後悔することはない筈なのに。
最期の時のつらさ、苦しさから
みいみはすべて解放されて
もう苦しんでいないのだから
胸を痛めることはない筈なのに。
それでもこんなにも胸が痛い。
2ヶ月経っても、胸が寂しい。
今はまだ平気なふりをして
日々を過ごすのが精いっぱい。
ああもう、私はなんて情けない。
いつまでも情けないままで、
グダグダ、べそべそしてるけど
でも、それほど愛せたことを
宝物のような年月があったことを
忘れることだけはしまいと思う。

11
2020/12/29
今年は今日が仕事納め。
最後の最後までバタバタだったけど
どうにか無理やり幕を下ろしました。
残りは年明けに持ち越すことにして。
今年は世界も大変だったけど
私には大切なものを失った年。
随分号泣発作は収まってきたけど
最期の日のことを思い出すと
胸が苦しくなってつらくなる。
でも、そんな時に思い出すのは、
みいみが長くないと覚悟した頃に読んだ
「猫とさいごの日まで幸せに暮らす本」の
表紙の帯に記してあったこの言葉。
この言葉、本当にそのとおりだと思う。
最期を看取れない哀しみに比べたら
最期を看取れたことは、確かに幸せ。
最期をちゃんと看取ってやれたことで
みいみと暮らしたこの上ない幸せを、
ちゃんと完結させられたに違いない。
みいみへの尽きることのない愛を
ちゃんと全うさせられたに違いない。
それはとても哀しいし、寂しいけど、
同時にとても幸せなことだということを
自分に何度も何度も言い聞かせてる。
そしてこの言葉をしっかり胸に抱いて、
2020年を静かに終えたいと思います。

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